Zionの花束を17 (ページ25)

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Zion最後の日10 ページ25

酒もなくなり、つまみもある程度食べた。
マスターは食器を丁寧に片付け、使われていなかったテーブル席の方まで丁寧に掃除をした。ピアノにうっすら積もった埃を払い、床を掃き、窓を拭き、全ての掃除を終えたところで、道具を片付けて外に出た。
寒空の下、律儀にマスターを待っていたのは、二人の古参客である。マスターは改めて向き直り、折り目正しくお辞儀した。
「ご愛顧いただき、ありがとうございました」
二人──顎髭と眼鏡は何も言わず、マスターが最後の作業をするのを待った。
扉の脇に長年あった、掠れて読みにくい文字。そこには「Zion」という店名が書かれていた。マスターはその看板を店の中へ仕舞う。
三代続いたバーはこうして静かに閉店した。
人知れず、静かに。

「これからどうしようか」
切り出したのは顎髭だった。どう、とは? と投げかけるように眼鏡が視線を向けると、顎髭は肩越しにマスターだった男を振り返る。
「マスターってしか呼んでこなかったからさ。これからなんて呼んだらいいのかなって」
「ああ……」
言われて眼鏡も悩んだ。長い付き合いだが、眼鏡も名前を呼んだことがない。いつもマスターと呼んでいた。
「そんな細かいこといいじゃないですか。名前を知らなくたって30年友人関係を紡いできたお二人ですし」
「それもそう」
顎髭と眼鏡も、互いの名前は先日知ったばかりだ。
月が冴えて、星が目映い夜空を見上げながら、それに、とマスターは言葉を次ぐ。
「名前なんていらないですよ、今更。私たちの関係には」
顎髭がおっと声を上げた。
「気の利いたことを言うね。さすがだ」
「お褒めに与り光栄です」
名前などなくても、満ち足りた世界に彼らはいた。故に、名前にこだわらない。
別れがほんの少し寂しい季節。まだ雪の降らない寒空の下で、名前のない群像劇の舞台が一つ、幕を下ろしたのだ。