花ひらり4 ページ21
マスターが奥に引っ込んで、新作の試作品を作っている間、眼鏡と小肥りの勤め先が、この街一番のコンサートホールであることで話題は盛り上がっていた。
「あのコンサートホールは音楽の道を志すこの街の者なら誰もが憧れる場所ですわ」
スパークリングワインの小さな気泡を愛でるようにグラスを撫でて、歌手の女性は語った。ピアニストの青年も控えめながらに頷く。
働くにあたって、コンサートホールについての評判は当然小肥りも聞いていたのだが、実際に演奏する側から「憧れだ」と聞くのはこれが初めてだった。自分はコンサートホールのスタッフ側だから、演奏者側の意見としてどうなのか、というところはいまいち実感がなかった。こうして本当に親しまれていることに安心したし、誉に思った。
「Zionも充分素敵な会場ですけれど」
「ええ。ピアノは年代物で、とても大切にされてきた跡があります。それに自分の指を乗せるだけで、これまであのピアノで紡いできたであろう人々の音色が、自分の中に染み込んでくるような感覚までします」
寡黙だと思っていた青年が朗々と語り出して驚いたが、小肥りの口元にも顎髭と似た笑みが閃いた。微笑ましい。そしてそれを語る彼こそが、今誰よりも愛に満ちているように思う。
「でもきっと、大切にされてきたのは、あのコンサートホールも一緒なんですよね」
彼は水しか飲んでいないはずだが、いつもよりよく喋った。
「何度か、あのホールに演奏を聞きに行ったことがあるんです。どの演奏者も暑苦しいスポットライトに照らされているのに、森の静かでどこか神聖な木漏れ日の中で演奏しているような、世界を感じます」
感受性豊かな感想だ。確かに、スポットライトは暑くて、演奏終了後には汗だくの奏者もたくさんいるが、彼らが醸し出す音楽の中の静謐さはなんとも言えない魅力がある。
感受性豊かなこの青年が、ピアノを弾きたいと願うのもわかるというものだ。
「それはピアノ自体ももちろん、会場や控室の隅々に渡るまで、きちんと整備されているからだと思うんです。コンサートホールだから、奏者にも聴き手にも寄り添っているような……優しさに溢れている」
夢を語る少年のように生き生きとした青年をちら、と見やり、女性がふふ、と笑った。愛くるしい小動物を目にしたときに零れるような笑みだ。
「今度、何かの演奏会があるときに行ってみようかしら」
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作者名：九JACK | 作成日時：2020年11月1日 22時
