1941行き片道切符 ページ2
ひやりと冷たい何かが頬の上を滑った。まるで、あのピナフォアを纏った少女が落ちて行った様な深い深い陥穽へと落ち込んでいた意識が揺り起こされ、幻想世界を旅していた心が身体へと戻って来る。逃さないようにと握りしめていた空想の輝きは指の隙間から零れ落ち、現実は余りにも無慈悲に彼女の五感を乗っ取った。
陽光が瞼を押し上げて視覚へと侵入して来る。空気に曝した眼球の奥では絶えず赤茶の斑点がちらつき、その周りでピンクの象が曲芸を披露している。眩い光はそれら夢の残滓を瞬く間に呑み込み、全てを白一色に染め上げてしまった。
聴覚の方は少し起動が遅れていた。外界の雑音は水の中から聞いているかの様にぼやけており、その輪郭を曖昧にしたまま鼓膜を介して脳へと押し寄せて来る。機械類の荒い息遣いと、それに混ざって宙を舞うメロディ。聴き覚えがある。この曲は何だっただろうか。ピョートル……そう、ピョートル・チャイコフスキー。メルヘンティックで流麗な旋律の使い手。繊細で感受性の高い硝子で出来た作曲家が産み出した音色は生温い空気を掻き混ぜ、その場の乾いた雰囲気を圧倒する力を持って空間で響き渡っている。目覚めたばかりの思考はその美麗な楽曲の名前を思い出そうとゆっくり回転を始めたが、それは遂に叶わなかった。
月見はまず初めに瞬きをし、そして殆ど反射的に身体を起こしてベッドから出ようと試みた。今日はいつものような倦怠感が無い。このぶんならば実に二週間ぶりに登校する事が出来るかも知れない。別に学校に行きたいというわけでもないが、出席日数が極端に少ないというのも不味いだろう。そう思いながら頭を擡げた瞬間、月見は漸くここが自分の部屋ではない事に気が付いた。
ガタガタと酷く揺れる車体、東京に居た頃には目にした事も無い内装、窓越しに流れて行く緑色と茶色。ああ、そうだ。従姉が殆ど盗むようにして姉の元から借りて来たUAZ-3909。既に都市部では走る化石と成り果てたボディも、ここまで郊外へ出て来ると妙に田舎臭い風景と混ざり合ってよく馴染んでいる。我ながらこんな最低な乗り心地の車でよく熟睡出来たものだ。姉から嘲笑混じりに言われた「いつでもどこでも寝れるなんて、月見はSEALs隊員に向いているねえ」という言葉がふと脳裡をよぎった。
「お早う御座います、お嬢様」
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