喪失 ページ30
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｢記憶喪失ですね｣
｢まあ、一時的なものでしょうけど｣
私の担当のお医者さんは、恰幅な也に似合った柔らかい笑みでそう告げた。
…いや、笑い事ではないのだが。
記憶喪失なんてお話じゃよく聞くけど、実際に身の回りに。まさか自分の身にそれが起こるだなんて、思いもしなかった。
まあ、自分の名前すらわからず。交友関係も思い出せない時点で、それが逃れようのない事実だということを認識させた。
言葉とか、知識とか。
そういうのは覚えてるのに、“私”に関する全てが欠如したこの状態は、なんだか気持ちが悪かった。
何か別の入れ物に、入り込んでしまったようなそんな気が。
…でも、不思議と嫌な気はしなくて。お医者さんにも、こんなに落ち着いた人初めて見ましたよ、なんて笑われる始末。
慌てるも何も、覚えてないのだから仕方ない。
私の感覚としては、人間としての一般的な知識を装備した状態で、新しい人生をどうぞと丸投げされた気分だった。
思い出したいとは、思わなくて。
自分が今に至るまでの経緯も、尋ねることはしなかった。
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｢…Aっ、｣
診察室から自身の病室に戻りぼけーっとしていると、そんな空気感を壊すように勢いよく扉が開いた。
男性だ。
背の高い彼は、私を見て目を丸くするなりつかつかと距離を縮めてきた。
｢…っ、｣
なぜかはわからない。
ただ、やはり仄かに前の記憶が残ってるのだろうか。彼を見た瞬間、少しだけ頭が痛んだ。
その痛みが傷か、はたまた脳に訴えかけているのかは分からない。
直感からして私の知り合いなんだろうか。
｢…｣
自分の姿を見ても何も言わない私に、不審な表情を浮かべる男性。
これは
事情をご存知ない？
｢…だれ、ですか｣
私記憶喪失なんです！
とか言える雰囲気ではなかったから、遠回しにそう尋ねた。
一瞬見開かれたその目は、時間の流れと共にゆっくりと塞いでいった。
彼は、誰だ。
｢…俺だよ｣
誰だよ。
｢お前の彼氏の、キヨだよ｣
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作者名：ゆき
| 作成日時：2020年4月25日 11時
