弐(終) ページ8
ぼんやりと廊下に消える父の背を見た。頬は燃えるように熱く、流れる涙は灼熱だ。喉がきゅうと締まる。打たれたのはほほだと言うのに、喉が1等痛かった。このまま父の統治するこの家にいたら、自分が自分でなくなる気がして、私は畳を撫ぜて玄関から飛び出した。
雪がチロチロと降っていたが、私に触れる前には溶けていたように思う。体はこんなに怒りと屈辱に燃えているのに、心は冷え切って冷たかった。
「本田さん」
目を真っ赤にして、足元はぐっしょり濡れてやってきた私を、その人は何も言わずに家へと上げてくれた。
「女学校を辞めろと言われたのです。結婚をして、家庭に入るのだからと。……私が女学校で成績が一番だと言ったら、あの男はこう言いました」
その頭脳を僕の弟に分けてやって欲しいですよ。女のあなたが持っていても宝の持ち腐れですね。
男の言葉は一言一句違わずに何度だって繰り返して私を縛りつけて、傷つけた。
本田さんはじっと黙っていて、いつものいい呼吸の相槌はなかった。
本田さん、日本さん。あなたが男に従えというのなら私は諦めもついたかもしれないのに。女は家庭に入って良妻賢母たるべしとあなたが言えば、私は自分を殺せたかもしれない。
外の雪の降る音まで聞こえそうな沈黙は、本田さんが立ち上がって部屋を出ていく衣擦れの音で破られた。私だけになった彼の部屋で目を閉じる。たんたんと軽い足音とともに、祖国は部屋に戻ってきた。
「あなたにこれを見せようと思っていたのです」
本田さんは、私の前に小さな何かを差し出した。それはどうやら木でできた何かのようであり、私には使い方が皆目検討もつかないものであった。
「これは、先日アメリカさんから貰ったものです。鉛筆を削るための道具で、こうして……」
彼の手は鉛筆を手に取ると、その小さな叡智の結晶に差し込む。小刀とナイフで削るよりも随分正確に、早く鉛筆の芯は美しく尖っていた。
手を伸ばして触れると、私の指の腹に鉛筆の先が沈む。指先で生まれた小さな痛みは、私の頬の痛みにも勝る何かを秘めているようだった。
小刀とナイフに代わって、この機械に鉛筆をいれて削る日が来るだろう。いつかくるかもしれない未来のことを思うと、私はどうしてかとても泣きたくなるのだ。
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作者名:唯 | 作成日時:2019年8月27日 1時