＊ ページ23
カラン、
麦茶の氷が形を変え始めた頃、
ようやっと顔を上げたひかる君は音も無く
立ち上りくるりとこちらへ向き直った。
ひかる君に射竦められるとどうにも身体が
動かなくなる。
「ねぇ、裕翔本を作ってみないかい？
否、正確には詩集の編纂をというべき
かな。」
突然の提案に頭が回らない俺を余所に、ひか
る君はそのままいのちゃんの文机へと足を向
けた。
ドクっと胸の内が大きく揺れる。
そこはいのちゃんの聖域であり唯一手を触れ
る事が出来ずにいる場所でもあった。
すっかり渇いてしまったペンも半分程になっ
たインク瓶も何もかもがそっくりそのままの
形で残されている。
ひかる君は迷いの無い所作で引き出しに手を
掛けると束になったいのちゃんの遺稿を取り
出した。
いのちゃんが詩を書き初めてからの全て。
「いのちゃんは己の魂を削って詩を書い
ていた。
元来物事を咀嚼するのがとても上手な人
だったから、抱え切れない胸の内にすっか
り困惑してしまってそれらを言葉にする事
で自らと向き合おうとしたのさ。
だから、ここにはいのちゃんの生きたこれ
迄の全てが詰まっている。
苦しみ、哀しみ、切なさ、諦め、喜びや
慈しみ…
それらはきっと裕翔、君と出会う
為にあったんだと俺は思う。」
文机に向かういのちゃんの真っ直ぐな背を
思い出す。
「いくら時間が掛かっても構いはしない。
一人で背負い込む事も無い。
でも、これら全てと向き合えるのは、
いのちゃんが遺した言葉を後世へと繋ぐ事
が出来るのは、彼が生涯を賭して愛した
ひかる君から受け取ったいのちゃんの全て
はずしりと重く愛しくて、胸に抱えれば
“ゆうと”
とあの柔らかな声が聞こえてくる様だった。
俺はこうして再びいのちゃんに
生きる意味を与えて貰った。
…
三年の月日が流れた頃、だいちゃんは新棚の
大番頭を任される迄になっていた。
愛嬌の良さは相変わらず、店はいつでも賑や
かで大層繁盛している様子だ。
高木さんもまた世に吹く風を的確に読み、会
社の規模を拡大させていった。
新たな社屋は港きっての一等地に建てられた。
ひかる君は怪奇幻想の作風から一転、世界各
国を巡りながら旅行記の執筆に勤しんでいる。
旅先からはいつでもいのちゃんへ宛てた絵葉
書が届けられるのだった。
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 990人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告感想を書こう！(携帯番号など、個人情報等の書き込みを行った場合は法律により処罰の対象になります)
ぴよ(プロフ) - 梨乃さん» 梨乃さん長い間本当にありがとうございました。何度も読み返したくなるお話を書きたいと思ってきたのでとても嬉しいです。終らせてしまうのは私自身にも寂しさがあったのですがお話もいっぱいになりちょうど頃合いなんだろうなという気持ちです。 (2023年2月5日 12時) (
レス) id: e4c9d3b3cb (このIDを非表示/違反報告)
梨乃(プロフ) - 6年前初めてこのサイトで読んだ作品が浪漫廻廊でした。ぴよさんの紡ぐ言葉が美しくて、何度も何度も読み返したとても印象深い作品です。素敵な作品と出逢わせていただき本当にありがとうございます。 (2023年2月5日 0時) (レス) id: 74d5f2a7dd (このIDを非表示/違反報告)
ぴよ(プロフ) - けーままさん» けーままさんありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいです。ずっとずっと私の頭の中にも懸命に生きる彼等が見えますよ⭐ (2023年1月27日 13時) (レス) @page47 id: e4c9d3b3cb (このIDを非表示/違反報告)
けーまま(プロフ) - ぴよさんの文章は本当に素敵です。何回も読み返す度に頭の中で彼等が生きています😌 (2023年1月26日 20時) (レス) @page46 id: 3a21aa44cd (このIDを非表示/違反報告)
ぴよ(プロフ) - 遅くなりました。夏夢さんお元気でしたか？コメントありがとうございます。世界が動いた時にはまた共有したいなと思いながらもご無沙汰しております。穏やかにありたいですね。 (2023年1月25日 13時) (レス) @page45 id: e4c9d3b3cb (このIDを非表示/違反報告)
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
