ラベンダー/nisn ページ28
視界が、聴覚が、頭が。ぼやける。優しく回されたこの腕は、一体誰のもの何だろう。
「……せんぱい、」
先輩、なのだろうか。だとしたら申し訳ない、早く離れなくては。
「どうかした?Aちゃん」
ぼやけた頭に響く、甘い声。仄かに香る香水。何より、肩に回された腕から透ける、卑下た下心。
「………せん、ぱい?」
違和感が、全身を包んでいく。
この人は、先輩じゃ、ない。
だって、だって、先輩は私のこと、
「っA!!」
Aちゃん、なんて下品な声色で呼んだり、しない。
唐突に強く引かれた右腕。やっと解放された両肩。そのどちらも、いや、気が付けば全身が、すとん、とその声の持ち主に覆われた。
キツく、とは言わなくとも、確かに染み込んだ煙草の匂い。あまりに近すぎて、頬を撫ぜたのは薄紫のストール。包まれたその胸板は、激しく上下して。
「なっ、何ですか、俺は別に…っ」
「…ゴタゴタした言い訳は要らんねん」
今しがた感じた嫌悪感でも、下品さでもない。それは、確かに"安心"と呼ぶに相応しい。この背中に庇い守られているという事実が、ただただ純粋に嬉しかった。
「…歳下の女を酔わせて好き勝手するようなヤツに、俺の優秀な部下やる訳にはいかんわ」
ぼんやりと霞んだ意識の中でも、彼の声は確かに私の心を掴んで、離さない。
格好良さとは程遠い捨て台詞と、遠ざかる足音に比例して、強ばった体が弛緩していく。ああ、やっぱり、
「っ、はぁっ、お前は、ほんっまに世話ばっかかけてくれるな…っ」
「せんぱ、い、」
「普段動かないおっさんを走らすなや…ったく」
鎖骨に汗が伝う程汗だくになった先輩なんて、知らない。
見下ろすその端正な顔が心配と安堵で歪んでいるなんて、知らない。
背中に回された腕が、ビックリするくらい熱いなんて、知らない。
知らない振りして、目を背けて。
「………ほら、タクシー呼んだるから、今日はもう帰れ」
それで、本当に良いの?
知らない振りして、聡い振りして。
「………A?」
「まだ、一緒に、いたい、です」
ねぇ、まだ足りないの。もっと私を安心させて。震えた声も、濡れた瞳も。もうあなたのせいにはしないから。
今この瞬間、馬鹿になって、調子に乗ることを、許して。
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