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「…A」
『あれ、気づかれちゃった』
彼の背後に回り、声をかける直前、といった所でスマイルに名前を呼ばれてしまう。長時間生活を共にしていると、気配でバレてしまうのだろうか。
必要とされている感じがしてなんだがむず痒い気持ちになったところで、彼の隣に腰掛ける。
と、視界が彼で埋め尽くされた。
両手首は彼によってソファに押し付けられ、彼の伸びた髪の毛が頬をくすぐる。足を動かそうにもがっちりガードされているようで、自由に動かすことが出来なかった。
「…18時2分35秒」
空気が震える。氷のように冷たい彼の声色。
「Aが帰ってきた時刻。俺は18時までに帰ってこいと言ったはずだが」
普段は寡黙な彼が、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「世界で最もお前を想う男を差し置いて気味の悪い有象無象共に愛想を振りまく時間は、大層楽しいものだったんだろうな」
否定したかった。そんなことは無い、スマイルといるのが1番だ、と。けれど、声が喉に張り付いて上手く出ない。絞り出せど、蚊の鳴くような声ばかり。温厚なはずの彼を怒らせてしまった。どうすれば、どうすれば機嫌を直してくれるのだろう。
『…っあっ…その、』
「次から気をつけるとでも言うつもりか?気をつけようとして出来るなら初めから破らねえだろ。…まあ、Aの事だし、大方周りに引き留められて断れなかったんだろ?」
肯定しろ、と命じられているような気がした。実際にそうなのだから何の躊躇いもなく頷けば良いものを、体が素直に動いてくれない。
彼の透き通るような手が、私の頬を包んだ。唇に届く柔らかな感触。あたたかい。
啄むように、愛おしさを確かめるように何度も。そして段々と、それは激しさを増していった。
静まり返った部屋に、二人の水音だけが響き渡る。
苦しくなり、空いた左手で彼の肩を叩くと、唇が解放された。反射的に息を深く吸い込むと、彼の右手が私の後頭部に回され、そのまま彼の顔に押し付けられる。足りないと言わんばかりのそれは、普段の彼からは想像もつかないような、それでいて、心の中で密かに願っていた望みが叶ってしまったような、そんなものだった。
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作者名:えん | 作成日時:2023年9月26日 17時