kn/大好きな君へ。 ページ29
「あ、やっと起きてくれた。先に死んじゃったかと思ったよ」
混濁する意識の中で目を開けると、眉尻を下げた彼が眼前に迫っていた。持ち前の涙ボクロも相まって、普段のあのおどおどした姿からは想像もつかないような妖艶な雰囲気を放っている。何かを覚悟したような、それでいて全てからの自由を待望するような。
意識が冴える一方、身体の感覚は依然として鈍いままである。刑事ドラマを連想させるような広大な海と真っ黒に染められた寒空を持ってしても、私という形が明瞭にならない。それが故に、巻かれた赤い糸に気がつくのも遅れてしまった。左の手首に何重にも巻き付けられ、部分的に鬱血さえしてしまっている。しかし、どれだけ身体が眠ったままであろうと、この不可解な状況の黒幕が彼であろうという確信だけははっきりと持つことが出来た。無論、この先起こりうるであろう悲劇についても。
「…？なんでそんな不思議そうな顔してるの？」
まるで子どもが空の青さの訳を尋ねるかのように、純粋な疑問をぶつけてくる彼。どうやら、私の預かり知らぬ間に彼の中で物語が完成してしまっていたらしい。反抗する事こそが不条理であるとでも言わんばかりだ。
「Aは覚えてるかなぁ、ずっと一緒に居るよ、って言ってくれたもんね」
彼は自身の右手を私の左手に絡めてくる。一切の隙間がないように、何度も深く握り直して。恍惚とした表情とは裏腹に今にも左手がみしみしと音を立てそうで、けれどどれだけ脳が警鐘を鳴らそうと逃れることは叶わない。
間もなく水平線から太陽が昇る。私たちはまだ、夜に取り残されたままだ。
にこりと彼が笑う。繋がれた手に痛みが走って、未来へ体が傾いていく。絶望して瞼を閉じた時、浮かんできたのは、彼の希望に満ちた笑みだけだった。
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作者名：えん | 作成日時：2023年9月26日 17時
