shk/大好きな君へ。 ページ28
「もうやめて……！！」
私の声が、二人だけの世界を破壊する。悲哀と懇願に満ちた声。勢いに任せ彼を突き飛ばすと、よろけはせずとも面食らった顔になってしまった。
一時の感情に身を委ねるのは、己の人生を破壊しかねない。彼と時間を共有する中で得た最も大きな知見である。頭の片隅に置かれていたそれが蘇り、慌てて自分の行動を省みた。まずい。今は困惑状態に置かれているが、この後激情するのか自分の都合の良いように解釈するのか、二つに一つである。
以前の私であれば、ここで彼の言動ひとつひとつに気を配り、彼にとっての最善に思いを馳せていたのだろう。
もはや、我慢の限界だった。
身に覚えのない思い出。甘い言葉を吐く見知らぬ男。私の体を徐々に蝕み今にも覆わんとするようなそれに、本能が耐えられなくなってしまった。
「……ああ、そうかよ」
彼は一切取り乱す様子も無く、ただ凍てついた声で私を刺した。
彼の一挙手一投足が私の命運を握っている。即座に最善の行動を取らねば一秒後の平穏さえ保証されない。しかし、どれだけ伺い立てようとしても、瞳の奥が全く見えてこなかった。普段とは違う、緊迫した雰囲気も柔和な雰囲気もそこには存在しない。彼が顔に浮かべたのは、無。
だから、反応が遅れた。
体が床に叩き付けられ、背中に激しい衝撃が加わる。それを嘆く暇すら無く、体が叩き起された感覚に襲われ、頭がじんじんと痛んだ。彼の骨ばった両手が私の首を鷲掴み、今にも折らんとする勢いである。喉が上手く震えない。鼻先にも痛みが響く。無意識下で藻掻けど景色は何も変化しない。
自身の肌から、熱が引いていくのがよく分かる。繋がった首元だけが不自然に温かく、それでも何かを感じられる程の余力は残されていなかった。
死。
それを覚悟した途端、安堵している自分に気がついた。
ようやく、ようやくこの無様な茶番劇から解放される。私は逃れられる。私は自由になれる。
得体の知れぬ人物に怯える事も、突如壊された人生に思いを馳せる事も、何もかもから。
段々と抵抗に尽くせる力が弱まってきた。視界もぼやけ、眼前の彼すら明瞭に捉えられない。
始めからこうしてしまえば良かったと思えるほどに、私の心は安らぎに満ちていた。
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作者名：えん | 作成日時：2023年9月26日 17時
