【WT】貴方と紡ぐ【短編集】 (ページ27)

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br/大好きな君へ。ページ27

戻らなくてはいけない。今すぐにでも帰宅して、既に到着しているであろう彼と顔を合わせて、それで。

「…っぅ…！」

喉の奥から胃液が込み上げてくる。無意識下の生理的な嫌悪。細胞の全てがこの先起こるであろう恐怖を拒否している。頭と体が切り離された気分だ。
失敗した。何気なく掃除をしていたら、彼のマウスを落としてしまった。新しいものを探そうと宛もなく外へ飛び出したが、簡単に見つかる類のものでも無い。既に彼は帰宅しているだろう。姿を消したマウスにも気がついているはずだ。けれど連絡はまだ来ていない。ただ無くしたとだけ感じて居るのだろうか。もし私が隠したのだと知れば、彼は何を思うのだろうか。

呼吸が浅くなる。何度息を吸っても脳に酸素が行き届かない。自身の荒い息遣いだけが耳に残る。周囲が騒々しい。けれど上手く聞き取れない。人がざわついている。クラクションの音が空中分解する。右側から焼き付けるほどの光で照らされる。

硬い何かが何かにぶつかった鈍い音がして、遅れて全身に激痛が走った。灰色のコンクリートが遥か下に逃げていく。
家族、友人、同僚。様々な人の笑顔が映画の予告のように脳裏に浮かび、解像度が追いつくよりも先に消えた。そこに無いのは、彼の姿。
半身が冷えた床と生暖かい液体に触れていてかなり気色が悪い。けれど同時に、身体中に心地良さが広がっている。

ああ、早く彼の元ヘ帰らなければ。大丈夫、わざとでは無かったんだ。話せばきっと分かってくれる。
大丈夫、大丈夫、私たちは大丈夫。
大丈夫だから、彼はやさしいから。
大丈夫だよ、大丈夫、だいじょうぶ。
お家に帰る前に、少し眠って休むだけだから。
ちょっぴり休憩して、それから謝りに行けば大丈夫だと、そう自分に言い聞かせて、そっと瞼を閉じた。