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なんでもない木曜日の夜は、人の出入りも少なく落ち着いた雰囲気。
松岡さんも今日は女性を同伴しておらず、奥のVIP席で煙草を吸っている。
この中に、あの人も…。
でも、やっぱり一見するとわからない。
だって、そんなに悪い人がいるようには見えないから。
カウンターに座る紳士的な男性、ピアニストの女性目当ての若いお客さん。
みんな、何を考えているんだろう。
知らないやつが突然歌い出して、帰ってしまわないだろうか。
バンドでしか歌ったことのない俺を見て、がっかりしないだろうか。
ピアノだけで音程なんて、いくら少ないお客さんの前とはいえ、とれる自信がない。
泣き出しそうになっていると、ふと最初にステージで歌ったときのことを思い出した。
あのとき初めて、みんなが俺のことを見てくれた。
学校じゃ理由もわからず視線を浴びて怖がっていた俺が、何十人もの人たちから拍手を浴びた。
今でもあの感覚を忘れたことはない。
お客さんがいても、いなくても、お金を取って見に来てもらっている以上しっかりしなきゃ。
うずくまってなんとか自分を奮い立たせようとしていると、頭上から野太い声が聞こえた。
「サトシ」
「マイケル…」
ジャズシンガーのベテラン、マイケルだった。
マイケルはしゃがみこみ、俺の震える手を握った。
「Take a deep breath to calm yourself down,OK??」
「お、おーけー」
なんかよくわからなかったけど、深呼吸しとけってことだよね。
マイケルは「Good!」と言って、俺の腕を引いて立ち上がらせてくれた。
一瞬マイケルが歌えばいいのに、と思ったが、キーが合わないとかそんな理由があるのかもしれない。
それが伝わったのが、マイケルは俺の唇に自分の人差し指を当てて、しーっ、と言った。
今更あの人が歌えばいいのに、なんて往生際が悪すぎるか。
選ばれたのは自分なんだから、やるしかない。
俺はしん、としたステージに上がり、ひとつお辞儀をした。
奥にいる松岡さんがパチパチと軽く手を叩くと、まばらに他の人の拍手も聞こえてきた。
俺は言われたように深呼吸をし、心を落ち着かせた。
まるで一種のオーディションのようだった。
みんな俺を値踏みするみたいに、お酒を片手にじっと見つめている。
これが、人のいない日のステージか…。
熱気も、話し声も、拍手も歓声もない。
シンガーである以上、どんな場面でも歌わないといけない。
この風景がそのことを物語っていた。
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作者名：京
| 作成日時：2020年8月16日 14時
