玖。 ページ13
「…。」
「……、」
部屋に入ったはいいものの、彼は何も話さないし、動かなかった。
何時もは相手から何か話し掛けてきたり、もしくは問答無用で押し倒されたりするんだけど、目の前の彼にはそんな様子などなく、まぁもちろん有無を言わせずに色々されるのは気分のいいことではないけど、こう無音な空間なのもまた居心地が悪い。
ちらり、と彼を見てみる。
まるで林檎の果実の色をそのまま写し取ったかのような髪は綺麗に切り揃えられていて、紅玉の瞳は丸く、おんなの俺から見ても羨ましくなるほど長いまつげに縁取られていた。服装も少し着崩してはいるものの、でも嫌な印象なんて一切なく、何て言うんだろうか、さすが良家の人間だな、と思ってしまう。
唐突に、彼はくるりと俺の方を向いた。
「さかた。」
「…え?」
少しだけ低くて、耳に心地良い声だった。でも、何を言ってるのか全然分からなかった俺の聞き返しに、彼は少し眉をひそめて、
「坂田。俺の名前。」
と、もう一度言った。
ゆるりと細められたその瞳に、思わずふいと視線を逸らす。
…ちがう、ちがうんだ。このひとはちがう。
俺が間違っただけで、このひとは何の関係もない。ただ俺の勘違いに巻き込まれただけの、可哀想なひと。
今日が終われば、長い長い夜が終われば、もうそれきりで、直ぐに忘れてしまうような関係でしかないんだよ。
変に夢を見ている訳じゃない。そんなもの、もう持ってない。花魁になるために、とうの昔に捨てたんだ。
きっと あいつ だって、忘れてる。
俺のことも。
__ また明日 の、約束も。
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作者名:ほだか。 | 作成日時:2021年2月3日 13時