29 ページ30
勉強をする時間が取れたかというと、そんなことは無かった。
格好よく私を送り出してくれた相坂さんだったが、夕飯時になると申し訳なさそうな顔で私の部屋をノックした。そんな事だろうとは思っていたが、彼が少しでも私が勉強する時間を作ってくれたことに免じて、何も言わなかった。
その後は廊下の掃除、お客様のお布団の準備など、せっせと働き、気づいた時には夜の九時を優に超えていた。お母様が厨房にいる私に驚いていたが、勉強どころではないと分かると眉を下げて謝った。私は大丈夫だよ、となるべく優しく返した。
ここまで忙しいのは誰のせいでもない。お客様も癒しを求めてこの旅館へと来るのだ。誰も責められない。旅館に生まれた者の使命でもあった。
母は私に旅館を継がなくてもいいよ、と言ってくれる。そうでなくても、私はここが大好きだから、お手伝いはさせて、と言うと、毎回決まって嬉しそうに微笑むのだ。
そんなこんなで、私がお風呂をいただいて自分の部屋に帰ってきたのは夜の十一時だ。明日も朝早く登校したいことを考えると、勉強時間は取れないだろう。仕方が無いので、登校時や登校後、いずれも朝に復習しようと布団に潜った。
うとうとと、ふらふらと揺れる意識の中で、彼のことだけが心配だった。
朝、いつもより早く起きて制服へと着替える。髪はいつも通り長い髪を三つ編みでまとめる。そろそろ切ってもいいのかもしれない、と思ったが、美容院に行く勇気がまだ出ないので、またお母様の手が空くまで待つことにする。
静かな廊下を歩き、非常用階段から下へと降りる。厨房へ行って手を洗い、朝ごはんの準備にとりかかる。
「ん、お嬢、はやいじゃん……」
「わっ、あ、相坂さん、おはようございます」
「俺ぁ眠くて仕方ねえっての……」
欠伸をする彼も寝癖を付けながら厨房へと入ってくる。ワックスを付けていることが多いので、いつ見ても寝癖だと分からない。長年見ているからこそ分かるステルス性を持っていた。
「お嬢、何がいい？」
「おうどんが……」
「採用」
手際よく彼はうどんを作ってくれる。それを横目で見ながら教科書を読む。代わり映えしないつまらない問題ばかりだ。もう何度も解いたし飽きたとも言える。ただケアレスミスはしたくなかったので、きちんと目を通した。
「ほれ」
「わ……いただきます」
手を合わせる私に、彼は微笑んだ。楽しそうな笑みだ。
「満点、とってこいよ」
私は口角をあげて頷いた。最高の送り言葉だ。
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 104人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：ReG | 作成日時：2022年1月22日 18時
