＊ ページ3
＊
「どーぞ。」
熱いから気いつけてな、とテーブルにマグカップを静かに置いたタツは、そのまま私のとなりに腰を下ろす。
ちいさくお礼をつぶやいてマグカップを両手で持つと、湯気と一緒にチョコレートの香りが鼻先をくすぐった。
「会いに行かへんの？」
マグカップをすこし傾けて用心深くココアをすすりながら横目でタツを見る。
「レオに。」
ココアはあたたかくて甘い。甘くて舌がぴりぴりとするくらい。でもそれがうれしかった。タツが作るココアの甘さはいつだってちょうどいい。
「…どうだろう。」
たった2時間電車に揺られれば実家に着く。別にこれといって特別に帰りたくない理由があるわけでもない。記憶の中では、家族の仲だってそれなりに良かったように思える。
それでも私はこの町に越してからの5年間一度も実家に帰っていなかった。お盆もお正月も、一度も。
どういうわけか、なんだか帰る気になれなかった。
「眠れないくらいなら、会いに行ったらええのに。Aちゃんが拾った猫なんやろ？会いに行ったら喜ぶで。」
「…どうかな。」
首を傾げ濁すような返事をする私に、タツはAちゃんは頑固や、とぼそりとつぶやくから、私はくちびるを尖らせる。
「ひとのこと心配してる場合じゃないでしょう。」
そして、マガカップから顔をあげタツをいくらか真面目な目つきで見た。
「ねえ、ほんとうに何も思い出せないの？料理の作り方とかタレントの名前とか、そういうことは覚えてるのに？」
「思い出されへんなあ。」
けろりとした顔で答えるタツに、のんきなもんだなと思いながらココアをすする。
幽霊は幽霊でも、タツは生きていたときのことをすこしも覚えていなかった。本名も仕事も、家族や恋人のことも住んでいた場所も思い出も、何も覚えていないのだ。覚えているのは誰かに「タツ」と呼ばれていたことだけ。
つまり、タツは記憶喪失の幽霊だ。
それからにわかに信じがたい話だけど、タツは記憶を取り戻せばちゃんと成仏できると思っているらしい。
何か思い出すまで家に置いてあげる代わり、その間タツは家事をしたり私の世話を焼いてくれる。
それが一年前に私たちが交わした約束だ。
＊
この小説をお気に入り追加 (しおり)
登録すれば後で更新された順に見れます 161人がお気に入り
お気に入り作者に追加
違反報告 - ルール違反の作品はココから報告感想を書こう！(携帯番号など、個人情報等の書き込みを行った場合は法律により処罰の対象になります)
蒼 夢見子(プロフ) - まゆ☆まゆさん» まゆ☆まゆ様、お久しぶりです…！早速コメントくださりありがとうございます。かなり前のお話をまだ読み返していただけてうれしいです…(T . T)少しずつの更新にはなりますがお付き合いいただけると幸いです！ (2022年11月20日 18時) (
レス) id: a5f8e6e331 (このIDを非表示/違反報告)
まゆ☆まゆ(プロフ) - お久しぶりです。数日前に満月の夜は〜を読み返したばかりです(^^)また蒼夢見子さんの新作読めるの嬉しいです♪続きも楽しみにしてます。 (2022年11月20日 6時) (レス) id: 9548b7921c (このIDを非表示/違反報告)
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名：蒼 夢見子
| 作成日時：2022年11月20日 0時
