桃白 ページ6
鯨の瞳
目の前の鯨幕が冷たい海を泳ぐようにひらひらと揺らめいている。立ち上っては消えていく線香の香りが心地良かった。ぼくの目の前に立ち尽くした男のうちのひとりがスッ、と右の目を細めた。葬儀場では明らかに場違いな金色の髪を指で梳く姿、きっと今野だ。ぼくは生憎目が悪いから、人の顔の判別がつきにくい。こうなる前にコンタクトでも角膜矯正手術でもしておけばよかったかもしれないな、とひとり勝手に後悔する。その隣で俺の安らかな死に顔を見つめながら、また彼も襟足の伸びた髪を撫でた男、こっちは矢花だ。
｢なんか、夢見てるみたい｣
｢たしかに｣
胸元のネクタイの結び目が変な方向に曲がっているし、ベタ塗りしたみたいなその黒の礼服もなんだか埃っぽくて所々シワが刻まれている。慌てて支度して来てくれたようだった。確かに今のふたりは忙しそうで、三人でご飯行ったこともだいぶ前のことのように思えた。永遠に箱の中で眠っているぼくの枕元に近付いて顔を覗き込むふたり。まあ、感謝と謝罪の言葉を言う前にぼくは声と体温と肉体を同時に失ったわけだけど。矢花の細くて長くて、爪の切りそろえられた指が死化粧を施したぼくの頬に触れた。ぴと、と張り付いた指先は震えていた。残念ながら、感触はない。でもきっと温もりを忘れたシーツのように、冷たい。
矢花のベース最高だったなぁ。ステージに立てば何かに取り憑かれたように暴れ出すからバンギャルに異様なくらいモテまくってたことを思い出す。熱を持った風も冷えた晩夏のことだった。
｢…つめたい｣
もしかして泣いてくれてるの？震えた声が耳に届いた。今野もつられてぼくの固く固く組まれた手に触れる。ぼくの手の甲に左手の親指が滑った。いつか、特徴的な指を見せては自慢する姿を思い出す。
今野のギターも素晴らしかった。鋭い瞳と端麗な顔立ち、そこから発せられる甘い歌声に鼓膜から痺れた記憶を呼び起こす。
｢本当だ、マジでしんでるみたい｣
｢しんでんだよ、本当に｣
おいおい、ふたりして泣かないでくれよ。こっちまで悲しくなるじゃないか。膝を抱えてしゃがみこんだ今野と矢花に通夜振る舞いでぼくを偲ぶ人たちは一生気が付かない。気付いているのは、規定された黒い枠の中で歪な笑顔を誰かに向けるぼくと、抜け殻になったぼくと、実体を持たない透明なぼくだけ。
｢ やばな｣
｢、ん｣
｢俺たちずっと一緒にいよう｣
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作者名：細魚 | 作成日時：2021年6月27日 0時
