米花町の音楽家 (ページ40)

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Op.6-15 ページ40

眼鏡男が立ち去ると、その場に普段通りの時間が流れ始めた。

取り残された私は、独り目をぱちぱちさせる。
目の前のその空間は、何の変哲もないただの列車の一角。
こんなところで誘拐なんてするだろうか。
さっきまで私が見ていたのは、夢とか幻とかそういうものだったのかもしれない。

「ねぇルイーズ、1日で殺人事件と誘拐事件の両方に巻き込まれる確率ってどのくらい？」

自分の目に自信を持てないでいた私は、手に握っていたスマホを耳にあて、そう尋ねた。

『A！急に応答しなくなるのやめてよ！悲しいし、心配になるじゃん！』

スピーカーから聞こえてきたのは、私の質問の返事ではなく怒鳴り声。
私は持っていたスマホを耳から遠ざけ、「ごめんごめん」と軽く謝った。
そんな私に呆れたのか、彼女は大きなため息をつく。

『なんだっけ？1日で殺人と誘拐に巻き込まれる確率？』
「うん。どのくらいだと思う？」
『そんなの調べたことも考えたこともないよ。何？今度は誘拐？』

電話越しに不思議そうな声を出す彼女。
その反応を聞いて、自分でも変な質問をしたと自覚する。
そうだ。殺人も誘拐もそうそう起きるものではない。きっとさっきのは兄妹喧嘩。言う事を聞かない妹のことを兄が叱っていたのだろう。

「違う違う。なんとなく気になっただけ」

私は無理矢理の解釈で自分を納得させ、この話は終わりというように適当に流した。

そして先程の話題について思い出す。

春玲が実力で負けたならば、彼女以上の演奏をする人物が現れたという事だ。
しかし、そんなピアニストがいただろうか。
コンクールという表舞台から離れた今も、ネット、雑誌などで業界の情報は確認していたつもりだ。最近騒がれていたトピックといえば、伝説の世界的指揮者が亡くなった事や超有名オケの日本公演決定とかその辺りだろう。
少なくとも、天才ピアニスト誕生なんて記事は目にしなかった。

「ちなみに聞くけど、ジュネーブの優勝者って誰な」
『着いたー！やっぱ日本は凄いね！ちょーかっこいい！』

私の発した真面目な質問は、ルイーズのエネルギッシュかつ呑気な声によって遮られた。
私は引きつる顔を抑えながら、スマホのスピーカーにじっと耳をすませる。

人が行き交う賑やかな足音。
日本人やら外国人やらの楽しそうな話し声。
時折聞こえる「らっしゃい、らっしゃい」という商売人の言葉。

此奴、観光してやがる。