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「幸せですか」
赤い紙に書いた。幸せだった。
あの日、時雨が冷やしたステンレスのポストに入っていたのは、茶封筒に入った記入済みの離婚届。
よく覚えているのは、Aが離婚届に綴られた夫の名前に、まだ胸を締め付ける愛を持っていたこと。それから、その離婚届が送られて来た理由が、わからなかったこと。
夫の名前の隣に、己の名を記した。
書いたら全てが終わるとも、書いたら全てが離れてしまうとも思わなかった。
そもそも、夫婦とは他人である。彼女はそのことをよく知っていたし、十分に理解していた。
だがしかし、彼女が納得いかなかったのは一つだけだ。
『離婚する理由がわからない』
同封されていた一筆書きの、細身だが芯のある字は、紙を傾けてしまえばサラサラと崩れて消えてしまいそうだった。
<幸せにできなくてすまなかった。俺のことは忘れてくれ>
彼の、大きくてカサついた武骨な手が好きだった。
彼の、レンズの隙間から見える真っ直ぐな視線が好きだった。
彼の、生傷の絶えないよく鍛えられている筋肉質な体が好きだった。
彼の、真面目で偽りが嫌いなおかげで苦労ばかりする性格が好きだった。
虚無感がどういうものか、結婚当初Aはわからないでいたが、これがその虚無感というものであると知って、Aは腑に落ちた。
Aは一筆書きを、人差し指の腹でゆっくりとなぞり、小さく、声に出して読んだ。
「幸せに、できなくて、すまなかった。俺の、ことは、忘れて、くれ」
妙に、現実味が帯びた。いや、現実であるのだが。これが現実というものであることに、一寸の狂いも間違いも無いのだが。
そして、たっぷり。たっぷり五分。寒い冬の、コンクリート壁に囲まれたポストの前で、Aは突っ立った。その間の五分、Aは何を考えていたか、今はもう思い出せない。しかしあの五分で、Aの人生はぐっと変化を遂げたのは間違いなかった。
五分と一秒。Aは記入された離婚届と一筆書きを封筒と一緒に左手でひっつかむと、高さ五センチのパンプスでマンションの五階まで一段飛ばしで駆け上がり、その間に右手でカバンの中から鍵を探し出した。家の前に着くと鍵を鍵穴にぶち込み、ドアノブが外れる勢いでドアを開けて玄関で靴を脱ぎ捨て、そのまま玄関のペン立てに刺してあったボールペンを引き抜いて玄関の壁で離婚届を殴り書いた。
緑の紙に書いた。虚無感だけが残った。
涙が出なかった。
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な(プロフ) - えっ……天才。 (2018年10月21日 21時) (レス) id: 057c14ed72 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:◎たなは◎ | 作成日時:2018年10月15日 21時