重力使い、絶賛悶絶中。 《中原中也》

第91話　天地の差 ページ44

「…ん？」

　睡眠から目を覚ますと、遠くに見知らぬ天井が見えた。
　手元には、柔らかい手触りの布団(ふとん)。聴覚が、隣から聞こえる誰かの寝息を捉える。首を右に回して状況を確認すると、穏やかな寝顔の中也が居た。

(ん゛っ。げほっごほッ)

　変な声が出たが、すぐさま口元を手で塞ぎ、咳で誤魔化す。
　寝顔が可愛(かわい)い事は、羊の時に遠目から見て知ってはいたが、こんなに間近で見た事は無い。それが新鮮で、心臓を鷲(わし)掴みにされたような。銃で撃ち抜かれたような。形容し難い奇妙な錯覚に陥ったが、一つ小さな悩みができた事に気づく。

　普段は格好良くて、寝顔が可愛い彼の隣に居る自分が心休まる時は、多分一生来ない。これが俗(ぞく)に云う『ギャップ萌え』だとしたら、その底無し沼に全身が浸かって抜け出せずに、幸福を感じながら溺死する確信がある。

(存在が尊い…！)

　布団を頭から被って、その中で彼と向かい合っていた体を即刻反転して小声で独り悶(もだ)えていると、背後から抱き寄せられた上、肌寒いのか暖を求めて潜りこみ、耳元で再び寝静まってしまった。それから数分。いや。数十分経ったか。よく憶えてないが、彼が目覚めるまでの時間がやけに長く感じ、『今日が命日か』と思ったのは事実だ。

「…んァ？ おはよう。A」
「おはよう、中也。耳元で喋るのやめろって、昔から言ってるでしょ？」
「お妃様の仰(おお)せの儘(まま)に」
「妃なんて久しぶりに言われたよ。王様」
「云うなっての」

　肩を揺らして笑い合って起床し、お手洗いに直行した中也を残して、廊下からタイル張りの台所で調理し始め、作り終えた頃には、約30畳(じょう)の居間にあるテーブルに着席していた婚約者に簡単な朝食を振る舞った後、お互いスーツに着替えて出社した。

「行ってらっしゃい、中也。ご武運を」
「おぅ。行ってきます」


「どうなってるんですか。オリヴィアさん？」
『そんなに怒らなくてもいいでしょう？ Aちゃん』
「ちゃん付けしないで下さい。これ商談なんですから」
『そうだった』
「抜けてますね」

　知人の紹介で、某商社取締役員秘書の助手として入社した初日。昼休みの時間を利用して、イギリスに向けて国際電話で話している。

「社長の現状が、あんなに酷いものだとは思いませんでした」
『とにかく、調査を続行しなさい』
「…了解」

　大先輩への恩返しは、まだ始まったばかりだ。

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