＊この世で最も美しく、哀しくない話part５＊ (ページ14)

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和也はポン、と私の頭を撫でて立ち上がる。

見上げた和也の黒い濡れた前髪の間から覗く瞳は

よく見えなかった。

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ペタペタと濡れた足で廊下を歩いて行く。

新しくバスタオルを取り、グシャグシャと自分の髪を拭く。

チリリン。居間から、風鈴の音がした。

窓があいているからだろう、微かに香る蚊取り線香の匂い。

夏の、夜の匂い。

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和也がこの家に来て過ごした日々を、匂いが連れてくる。

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和也は「風邪ひくから早くその貧相な身体、しまえや」

そう笑った。

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それが、最後の言葉だった。

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歩いて行く。

濡れた服を着替え、Ｔシャツと麻のパンツ姿で、廊下を曲がって行く。

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じゃあな。と唇が動いた気がしたけれど

勘違いだったかもしれない。

苦しそうな顔をした気がしたけれど

勘違いだったかもしれない。

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和也が去って行く。

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夏なのに凍えそうな心を抱いた私を抱き締めた和也が

去って行く。

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泣くな。

恨むな。

憎むな。

笑え。

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彼が遺した言葉を噛み締める。

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今年の夏は苦しくて苦しくて、届かない愛を追いかけて泣いて

届いた愛に泣いて、心臓が潰れる夜があって、

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パチパチと小さく儚く光った私の恋は

まるで線香花火のように丸い温かい光となり、地中に落ちた。

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その光がまたぼんやりと赤く、灯り出す。

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和也のタバコの火が、灯り出す。

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この灯りを、この感情を、何と呼ぶのか分からないまま。

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私の夏が、終わっていく。

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和也が、去っていく。