三十五 ページ35
バーテンさんのいない家に帰って、篠原さんから手渡された紙袋を玄関に下ろす。めっっちゃ重たかった。何入れたらこんなに重くなるんだとキレたくなるくらい重く、心の中で『元運送業者が重いとか何言ってんだ』とか思ってごめんと篠原さんに謝った。
血が止まって指先が白くなってしまった手をさすって、紙袋をダイニングテーブルの上に置いた。中から蓄音機に両手を添えてそっと取り出そうと持ち上げて、レコードボックスとの間に、白い二つ折りの紙が入っていたことに気がつく。
ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、折られていた紙を開いた。
真っ白な紙にうっすらと線が引かれたシンプルなデザインのそれは、バーテンさんからの手紙だった。
自分が殺されて死ぬとおそらく知っていた彼からの遺書のようなものであり、案外臆病な彼からオレへの不器用なラブレターでもあった。
加減で青にも見える黒インクのボールペンで書かれた文字は、僅かだがところどころに滲みがあった。
『あの期間のことは、ただの悪い夢だったと思って忘れてください。そして誰か真っ当な人間と恋をして、結婚して、家庭を作って。
それから、どうか、幸せになってください。
貴方は光の似合う人間だから。
私となんかと一緒にいてはいけない人だから。
蓄音機とレコードは自由にしてください。でもきっと、捨てるのがいいでしょう。
臆病でごめんなさい。
けれどもし貴方がいいと言ってくれるのなら、
貴方が幸せになることを見守るのを許してください。』
読み終えて、もう一度最初の行に目線を戻して、最後にたどり着いてまた最初の行に戻ってを繰り返した。少し右上がりの細めの字体をなぞりながら、ああ多分この人は、感情を表現するのに失敗してまた下手くそな笑顔を浮かべながらこれを書いたんだろうなと思った。
そう思えばたまらなくなって、手紙を持つ手に力が入る。
「……、ばかやろー」
バーテンさん、と呟いた声に、当たり前だが返事はなかった。
ダイニングテーブルから立ち上がりボックスからレコードを一枚取り出して、バーテンさんがいつもやっていたようにそれを蓄音機にセットする。
黒いジャケットを指でなぞりながら、小さく鼻歌を歌う。ぼんやりとした曲はよく聴いていたせいで、旋律を覚えていてしまっていた。
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作者名:深海 | 作成日時:2022年9月24日 21時