三十二 ページ32
「く…………バーテンさんが仕事ブッチするようになってからはや数ヶ月ですね。せっかく緋色さんが寂しがってるぞーって伝えようと思ったのに、その緋色さんも来なくなるんですもん。僕寂しかったです」
「そっか……」
上手い返しが思い浮かばなくて、生返事みたいになってしまった。それに気を悪くするわけでもなく篠原さんは心なしか眉をハの字に下げて、きょとりと顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫ですよ、そんなに悲しまなくたって一生会えないわけじゃないですよ」
バーテンさんったら、長い旅に出るなら大切な人くらい一緒に連れていってやったらよかったのになぁと、篠原さんがぼやく。
長い旅とはどういうことだ、というか大切な人とはなんだと聞けば彼は、
「あれ、バーテンさんって自分探しの旅をするだとか言って今世界一周してるんじゃないんですか?」
と。それを聞いて、ああバーテンさんは、このバーをすごく大切に思っていたんだな、とふと思った。
「あと、そうですね。大切な人とはなんだとか言われても、二人のお互いを見る目が、そう言ってたので……」
学生の頃はクラスの誰と誰が付き合ってるだとか、そういうの見抜くの得意だったんですよとどこか鼻高々に言う彼に、何故だか、は、と浅い息が漏れた。
彼が哀しげに微笑んで、それから蓄音機とレコードボックスが入った段ボールを中に入れた厚めの紙袋を持ってきてテーブルに置いた。
重たかったせいで持ち手が指に食い込んで痛かったのか、篠原さんはひいひい言って手をぶんぶんと振る。じっとりと汗が滲んでいる手をさすりながら、彼は叫んだ。
「はい! どうぞ!!!」
ちょっと篠原さんはキレていた。指が資本なピアニストにこれを頼むとはどう言う了見してんだあの人は、と篠原さんがすごい形相で言うものだから、少しおかしくて笑ってしまった。
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作者名:深海 | 作成日時:2022年9月24日 21時