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二十九 ページ29

夜十時頃、バーテンさんは帰ってきた。黒い服の上からでもわかるほどの、べっとりとした赤色を身につけて、いつの間にかリビングに立っていた。オレと目が合うと彼は腰が抜けたように地面に崩れ落ちて、ひゅーひゅーと肺に穴が空いているみたいな呼吸をしていた。彼の纏う赤色が全て返り血だったのならどれほどよかったことか。それは全て彼のもので、出血多量で死んでいてもおかしくない量である。指先が冷え切っていくのを感じる。急いで今着ているTシャツを脱いで患部を抑えたけれど、…………。

震えた手がオレの服の裾を引っ張った。Tシャツを必死で抑える両手の上にそっと手を乗せられ、ふるふると首を小さく振られた。


「ひいろ、さん」

「バーテンさん……」

喋っちゃいけない、と震えた声で呟くと、彼はふにゃりと笑った。今まで見た中で、一番彼の心がこもった顔だと思った。

「さいごにね、あなたにあいたいと、おもってしまったんです」

ぴしりぴしりと、硝子にヒビが入るような音が彼からしている。

「そしたら、いつのまにかここまで、きてしまってました」

首元から覗くヒビが顔にまで伝っていった。もとの顔立ちの綺麗さも相まって、まるで人形かみさまが地面に落ちてしまって割れているようにも見える。心がずっとズキズキと痛むせいで、幻想的であまりにも現実離れしている光景に違和感を抱くこともなく、これは間違いなく現実だと理解できて。ただただ、哀しかった。


「……ただいま、ひいろさん」

「……おかえり、バーテンさん」


なるべく苦しく聞こえないようにと、ゆっくり丁寧に吐き出された言葉だった。パキン! と硝子が砕けるような音の後、ぱちりと一つ瞬きをすればいつの間にか、魔法みたいにバーテンさんはふっと姿を消していた。


何も、残らなかった。

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作者名:深海 | 作成日時:2022年9月24日 21時

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