【歌い手】シェアハウスでの日常、その後。

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涙なんて、今更出てこない。
だって、もうこの男のことで沢山泣いた。もう、半分くらい諦めていた。

けれど、割り切れない残りの半分とちょっとが往生際悪く鼻の奥をさして、つうんと痛んだ。

「あー…ユリカ」
「ん？」

もう一度顔を上げると、ライラックの花びらが一瞬視界を掠めて、
…けれど、すぐに見えなくなった。

わかるのは、重ねられている柔らかな唇。

ちゅ、音をたてて下唇を甘く吸われ、名残惜しそうに離れるそれ。

そして、一瞬で上がった体温を冷ますように、ひやりと冷たい何かが手に握らされた。


「…これ、」

ああ、夢なら一生覚めないで。
ぽこたはしてやったりとばかりに笑って言った。

「“卒業生”のついでに“同棲中の彼女”って肩書き、欲しくない？」
「ッ…」
「浮気はしない。これまでの関係もまっさらにした。そのためにここ最近忙しかった。
…ユリカが大学卒業して、それでもまだ俺のこと好きでいてくれたら言おうと思ってた」

冷たい何かは、鍵だった。
握り締めると、じんわりと体温がしみるのが分かる。

「諦めなきゃ」という気持ちでがっちりと固めた恋心が溶けて、溢れて、頬を伝った。


「私、ッ…何回も好きって、言ったのに…！」
「ごめんって、許して」
「いつからそんな馬鹿げたこと計画してたの、馬鹿！」
「ユリカが高校卒業するあたりから」

その言葉に息が詰まると、抱きしめられた。
なだめるようにぽんぽんと頭を撫でられる。

すがりつくと、抱き寄せる腕に優しく力が込められた、

耳元で、甘くかすれた声が囁く。


「…今まで結構我慢してた。でもごめん、もう離してやれない」


なんて都合のいい男、だから嫌なの。

でも、泣いて頷く私もお手軽だ、相当。

もう離さないで。実った恋は、このままで咲かせて。



好きだよ、唇の上でつぶやかれたから、私は静かに目を閉じた。

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