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“のどかな日の光がさす春の日に、なぜ落ち着いた心もなく、桜は慌ただしく散ってしまうのだろう。”
水分の多い瞳が現代語訳の文章をなぞっていくのを、私は黙って見つめていた。
「…母親が、昔口ずさんでたんだ。だから、これだけ知ってた。」
そう言うと、七五三掛さんは手の中の本をそっと閉じた。
「意味が、知りたくなったんだ?」
「うん。」
今さらだよね、と小さく笑う顔は、今まで見てきた中で一番幼く見える。私は恐る恐る手を伸ばすと、彼の頭をできるだけ丁寧に撫でてみた。
「…お家に、帰りたい?」
「帰れるなら。」
疲れたように目を閉じると、「Aちゃんは?」と七五三掛さんが聞き返してくる。
「…私は、帰りたくないな。」
私は家に居場所がないから、とこぼすと、七五三掛さんはすぐに目を開けた。目だけで、優しく続きを促してくる。
「大した話じゃないの。ただ、」
「…ただ?」
「ただ……私の家ってね、人がよく集まる家だったの。昔から集落の総代…おさ、みたいな立場の家でね。びっくりするよね、いくら田舎でも今時そういうのが残ってるなんて。」
「うん、ちょっとびっくりした。…え、おさって何?長老みたいな?」
久しぶりに彼の少し天然な発言を聞いた気がして、私は思わず笑ってしまった。笑うなよ、と言いつつ、七五三掛さんも安心したように笑っている。
「…とにかく、近くに住んでる男の人たちがしょっちゅう家に集まって、お酒を飲んでいくの。酔っぱらって騒いだり、怒鳴り合ったり。私はどうしても、そういうのが耳に入るのが辛くて。自分の家だけど、いつも落ち着かなかったって……ただ、それだけ。」
ほら、やっぱり大したことない話でしょ?と笑ってみせると、七五三掛さんは首を横に振った。
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作者名:おさと | 作成日時:2023年4月16日 19時