雷獣の涙 (ページ1)

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こわれてきえたしあわせなひびページ1

九歳になったとき、Aは世界が優しくないことを思い知る。謎の生き物に襲われ、弟を亡くしたのだ。眼前に迫る細刃の短刀のような、弟の血にまみれた鉤爪は竦んだ幼い体を捕らえようとしていた。走馬灯にとある女性の一生の欠片がたくさん過る、その中に現状を打破できそうなものを見つけた。爪を横に転がることで避ける。
「ぐわ゛ぜろ゛ぉおぉおお！！」
　立ち位置を素早く認識して消された藤の香炉の中身をひっ掴んで生き物に投げつけた。生き物は激しく咳き込みへたり込む。その隙を逃さず、外に出た。空は東の方が白んできていて、夜明けが近いことが分かる。
　生き物がずるずると這いずって出てきた。明け始めた暁光に照らされたそれは、母だった。息が詰まる。襲いかかってきたのがあの優しい母だなんて信じたくなかった。
「かあさん…？」
　母は、整った目鼻立ちを歪めて唸るだけ。あの包み込むような子守唄の声ではない。それが悲しかった。
「！！」
　飛びかかられて、咄嗟に利き腕ではない方を前にして顔の前で腕を交差させた。ぱっ、と血が飛ぶ。痛みが遅れて傷口を苛んだ。視線を母から外さないままよろよろと後退する。夜明けの白い光が足元を浸していた。
「かあさん！？」
　母は、燃えていた。名状しがたい呻き声を上げながら、燃えていた。慌てて厨の甕から水を汲んで母にかける。炎は止まってくれず、無力感の中、Aは母が灰になる様を見続けるしかなかった。

　男が、座り込んだAの近くに立つ。
「嬢ちゃん、ここの子か？」
　男が指差す先は、Aの家。Aは涙の跡が残る顔を少し俯けた。
「…はい」
「すまなかった」
「なぜ、謝るんですか」
　男は、鬼を殺す仕事を生業としていて今は後進の育成に努めていると言った。
「俺が現役の頃の速さがあればお前さんの弟が死ぬことはなかっただろうからさ」
　まだ片手で数えられる歳の弟の、瞳孔が開ききった遺骸が脳裏に浮かぶ。
「その口ぶりからすると、現場へは現役の人が来るんですよね。あなたが謝る理由なんてないと思うんですけど…」
　やけに理性的なAの視界の外で男は眉根を寄せた。彼は、目の前の幼子が感情を殺したように静かなのが痛ましくて悲しかった。
「ああ、火葬、しないと…」
　Aは幽霊のようにおぼつかない足取りでふらふらと家に入り、布で包まれた弟の遺骸を抱える。弟は思いの外大きくて、こんなに大きく育ったのか、と不思議な感慨を覚えた。