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海は目前にあった。なのに私たちはアビスに囚われ、泳いでいくことが出来ない。空を仰ぐと、限りある空が広がっている。どうせ私たちはここから離れられなどしないのだ。アビスに畏敬と信仰を持つ限り。出ていったとしても1周回って戻ってくるに決まっている。
「…あぁ、クソッタレ。」
「良いんですよ。少なくとも、俺が貴女と敵対する理由がなくなったんですから」
俺がそう言うと彼女は振り返った。独り言のように、アビスについて語っていた口を止め、目を細めて微笑んだ。下の毛も生え揃ってなかったガキがこうなるとはなぁ、とポンポンと頭を撫でてられると手を振り払う。
さらりと潮風が頬を撫でた。昔、ライザさんに弟子入りを志願したときに、彼女にこんな風に頬を撫でられた記憶がある。何年前のことだろうか。彼女はふとこちらを真っ直ぐに見つめると、めずらしく過去を語り始めた。
なつかしい香り、父は海が好きだった。珍しく、アビスに憧憬を持たず、平凡な漁師として、オースの住民に新鮮な魚を届けていた。反対なのは母親だった。そう彼女は独り言のように語る。そして話を区切るかのように息をハァとつくと、砂浜に指で割れたハートを描いた。
「敵対って言うほどでもないけどね。どうせ、なし得なかったことだ。」
体育座りからヨッコラセッと立ち上がると、ジャリリと砂の音がする。彼女が踏みしめた浜辺の音だ。波打ち際へ向かうと、腰をかがめ、背中を向け、しゃがんだ。幼いときに既に見ていた心強い背中のはずなのに、まるで自分の役割を失ったかのような弱い背中だった。
「
海水を手のひらに掬いとった。それがさらさらと元の居場所に戻ろうと落ちていく間に、彼女は吐血した。赤黒い液体と海水は不明瞭に入り交じる。彼女はハハッと口元を赤く染めたまま笑った。俺は少し迷ったように視線を投げかけたあと、なにも見なかったふりをした。
「薬はちゃんと飲んでいますか。」
「これでも死ぬ覚悟はあるんだよ。」
どろりとした重い感触の声色。人生経験を積むと、このわうな声になるのかもしれない。手首を伝って落ちる水と血は、気まぐれに光っている。どこか悔しさを感じて唇を甘く噛むと、初恋は叶わない。そんな言葉が脳裏をよぎった。
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作者名：レネット | 作成日時：2022年11月2日 15時
