命の恩人-1 ページ23
≫黒崎 side
A先生と別れたあと、俺は桂に戻りカウンター席に腰掛けていた。
今は営業時間外。
店内のフロアには俺以外誰も居ない。
目の前では早瀬さんが洗い上げた抹茶椀を布巾で丁寧に拭き上げている。
「さっきのお綺麗な女性、一体誰なの？」
「んー？あぁ、あの人？」
そう切り出した早瀬さんが指す女性は、多分A先生のこと。
何の説明も無しに彼女を連れて出て行ったんだから、気にならないわけがない…か。
店の奥の親爺も口出ししないで黙って聞き耳を立てているんだろう。
仕込みの準備をしている音だけが店に響いていた。
「あの人は、俺の命の恩人」
スマートフォンゲームに視線を注いだまま、早瀬さんからの質問に答える。
「…それでもって、俺の初恋の人」
「はぁ？」
俺の言葉に早瀬さんは、そんな事まで聞いてないと言わんばかりに呆れ声混じりの嘆声を上げた。
でもさ、医者って何人もの患者見てるはずなのに。
それも次から次へと新しい患者が運ばれてくる救急救命に変わらず在籍しているって言ってた。
「……凄いよねえ、ずっと覚えててくれてたんだ」
別れ際、“黒崎さん”だなんて。
折角、名前呼んでくれたと思ったのにな。
でも思えばあの時から6年経ったんだ。
正直ほんの少し寂しかったけど、会話がぎこちなくなるのも仕方ない。
親父に腹を刺されて入院しているとき、俺は病院の外にある非常階段から飛び降りようとしたことがあった。
A先生に救ってもらった命。
それは勿論、感謝していた。
けど、あの日から俺は何度も何度も悪い夢を見ていた。
あの日見た光景のままの夢を。
学校から帰宅して玄関に入った瞬間に感じた違和感。
家族が居るはずなのに物音一つしていない家。
漂う重たい空気を掻き分けて、廊下を進んだ先に目にした惨状。
状況の理解も追いつかない内に、親父に包丁の刃先を向けられた。
“高志郎、ごめんな……”
親父はそう言って俺の腹を刺した。
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作者名：千草 | 作成日時：2022年11月2日 1時
