ワンカップにカカオを敷き詰めて (ページ34)

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「好きだよ」

それは、自分に宛てた言葉ではない。それでもその言葉の響きに胸が高鳴ったのは事実だ。
彼女はピアノの話をしているのに、僕は妙な気持ちのまま耳を傾けた。
「私はあまり得意なことが多くないんだ。でも、ピアノは思い通りに、思うが儘に音を出してくれるから。」

そう言い切って、少し彼女は噎せる。

彼女がピアノについて尋ねられた時、もう少し難しい顔をするものだと思っていた
だって、四角い箱の向こうで君はあんなにも不満げに音を奏でていたじゃないか。だから、こんなにも柔らかい表情でそれについて語るなんて思ってもいなくて思わず拍子抜けする。
「クラーク君、変な顔してるよ」
「……」
自分の手で頬に触れて、だいぶ情けない顔をしていることに気づき表情を引き締める。

「君が、」

彼女の眼だけが僕を見る。
「荘園に来る前のコンサートを見たことがある。」

そういった途端彼女はがばりと起き上がって、僕に詰め寄る。あまりの勢いに腰を引いた僕は、少し椅子から落ちそうになって困った。
「え、嘘」

少し困ったような顔だ。
「本当。」
そういえば彼女は大げさにため息をついて、項垂れた。
「あの頃の私、いつもひどい顔でステージに立っていたからちょっと恥ずかしいな。」
此方に顔は向けず、そのままの体制で「へへ」とはにかむような声で笑った彼女に物珍しさを感じる。彼女が恥ずかしがることなんて殆どない。
だから、レアだと思いつつ表情が見れないことを少し悔やんだ。

少ししてからするするとベッドにちゃんと座り込んだ彼女が、目を伏せながら言葉を紡いだ。
その表情は僕が最初、彼女がピアノについて語るときするだろうと思っていた表情に近い少し憂鬱気な表情だ。
「あの頃は人の為に弾かなきゃいけなかったし、ピアノのためだけに生きているようなものだったからつまらなかったんだ。ピアノは嫌いじゃないけれどね、あの頃の環境が合わなかっただけ。」

長い睫毛が彼女の瞳に影を落として、熱で汗をかいたからか肌に張り付く髪の毛をまとめて耳にかける。すん、と少し鼻をすすった後、熱い温度が絡まる息をは、と吐きだした。
彼女の笑顔が好きだ、けれど彼女はこういう少し暗めの落ち着いた表情の方が美しく映える。
「今の環境は？」

ぽろ、と口からこぼれたのは特に考えてもいなかったが何となくで出てきてしまった言葉。
今度は彼女が拍子抜けしたような顔をして。少し首をひねった後此方を向けば、ゆるりと笑った。