06 ページ29
ふう、と一呼吸置いてノックしてみる。
「松村さん、私です。Aです」
それからまたノックして、少し間を置いてから三度目のノック。
けれど返事は返って来なかったから引き返そうと背中を向けようとした時だった。
ガチャリと開いたドアと、長い前髪に隠れた松村さんの瞳と目が合う。それはほんの一瞬だった…はずなのに、まるでこの世界の時間が止まったかのような感覚に陥る。
「あ…あの、これ」
「…入って」
体感ではどれだけ時が止まっていたのか分からない。戸惑いながら口を開くと、松村さんは思いの外すんなりと私を部屋の中へ招く。
勝手に、ではあるけれど、松村さんの慎重な性格柄、人を部屋に入れるようなタイプではないと思っていた分さらに戸惑う。
本当に入っていいのかな。
でも松村さんは既にベッドに腰掛けていて、再度入室の可否を聞いていいような、そんな雰囲気はもうない。
まだ消えない少しの緊張と、ふわっと鼻をかすめる優しい甘い香り。部屋にフレグランスでも置いてるのかな、なんて考えるくらいには、ほんのちょっぴりの余裕も出たりして。
「お邪魔します…」
部屋へと踏み出した私の足は、足音を消していた。やっぱり緊張は消えないな。なんて思いながら、ようやく飲み物が入ったカップを二つお洒落なガラステーブルの上に乗せた。
チク、タク。チク、タク。
松村さんの部屋の時計が秒針を刻む音がする。やたら大きく聞こえるのは、私たちの間にまだ会話がないから。
どうしよう。何から切り出そう。今までどこにいたんですか。どうして連絡くれなかったんですか。…違う。
聞きたいことと言いたいことの二律背反。この緊張感を和らげたくて、ガラステーブルの上にある飲み物に手を伸ばしかけた時だった。
1346人がお気に入り
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:りく | 作成日時:2021年12月23日 21時