File.7-5 ページ38
「食べたくないなら無理しないで良いけど...」
さっきはああ言っていたが、手が動かないところを見ると矢張り食欲を唆られないのだろうか。なんて考えていれば「いや、そうじゃなくてさ」と返しながらナイフとフォークを手に取る。
「全部お見通しって訳ね」
僅かな苦笑と共に切り分けたデニッシュを口へ運んだ快斗は「やっぱうめぇわ」と感想を贈ってくれるが、明るくも柔らかい笑顔に嘘は無いらしい。その笑顔に小さく笑みを返しながら掛けたメイプルシロップをテーブルに戻す。
「嫌われたか気を引きたいかの二択かな、って」
押して駄目なら引いてみろ、とは良く言ったもので、毎日毎日押し掛けてこられてた状況で突然引かれると物足りなくなるものだ。初めからその心算で図々しくも入り浸って来ていたのか、それとも思い付きで計画したのかは分からないが、中々に良い作戦だったに違いない。
「来てくれないから逢いに来ちゃったもん」
玄関前まで来て先ず不信に思った時点で引き返して登校しても良かったのだけど、まあ普段から釣れなくて反応が悪い私に非があるからと諦めて今に至る。現に訪問するまでは、朝から来てくれない不服があった訳だから何方にしろ彼の作戦勝ちという訳だ。
恋の駆け引きというものは実に奥深い。
「まあそれもあるんだけどさ、オレばっかり邪魔すんのも申し訳ねえなって思ってよ」
零していた苦笑を薄めて普段と何ら変わらない柔らかい笑みを浮かべながら然う始めた彼は、食事の合間にポケットから取り出した其をテーブルに置いて此方に寄越す。
「だからフェアに住居の共有、ってのはどうだ?」
朝から眩しい笑顔に飾られて差し出されたのは家屋の鍵。状況と発言から察するに此家の鍵なのだろうが、何がフェアなのか疑問ですらある。私は自宅に快斗が入り浸ろうが不満は無いけれど、普通赤の他人が自宅へ自由に出入り出来る等損害でしかない。家政夫か執事かと思う程の有能振りを我が家で発揮させられながら、私に居宅への侵入を許すとは、彼が損しているだけだと言うのに。
とは言え、彼の作戦の末の提案を断るのも違う気がして。
「まあ...快斗が良いなら、取り敢えず貰っとく」
鍵なんか無くても入れるのに、それとこれとは別の何かに背中を押されてテーブルの上で朝日を纏う銀色に手を伸ばす。
「来てくれない日は珈琲淹れに来るね」
「...ぜってえ行くわ」
鍵が使われるのは何時になる事やら。
.
58人がお気に入り
作品は全て携帯でも見れます
同じような小説を簡単に作れます → 作成
この小説のブログパーツ
作者名:雪兎。 | 作成日時:2024年1月27日 11時