喜び ページ13
「じゃあ、昨日言ったことを踏まえてこの旋律弾いてみて」
僕がそう言うと、Aはわかりやすく目を輝かせた。その感情の出処を知り得ない僕にとっては、そんな単純な感情がどれほど欲しいものだったことか。
僕の方がピアノを弾いている時間は長いのに。何故僕はわからないのだろう。そんな苛立ちが、ちりちりと積もっていっていた。
けれど、そんな鬱憤とした気持ちは、たった一つの旋律によってかき消された。
たった、1音。それだけで、心が晴れ渡るような錯覚を覚えた。素直で、明るい音色。ポンッという音にピアノ自体が喜びを感じている。そんな風にも見えた。
気がつけばメロディはもう音楽室にはなかった。けれど、その音色は僕の頭にこびりついて離れなかった。まだAが弾いているのではないかと錯覚する程だった。
「昨日より手の形がきちんとしてるな」
驚いて思考が上手く働かなかった僕は、そんな一言しか出せなかった。そんな僕の驚いた声色の声を聞いて、Aは笑っていた。Aは、まさか僕がAの旋律で驚いているとは知らないだろう。
「えへへっ、練習したからね〜」
Aはそう言って自分の指を素早く動かした。嬉しそうにそう話すAの一声一声が、ピアノのへの熱い思いとなって伝わる。
単純に、羨ましかった。
ピアノを弾けるという事実だけで、喜べることが。ピアノを弾ける幸福を、感じられることが。
そんな感情を過去に置いてきてしまった僕にとって、それは本当に欲しい感情だった。
それに、あの音色。
綺麗な音だった。何年も音楽を経験していた僕でも素直に頷けるほど、綺麗な音だった。きっと｢ピアノが楽しい」という感情が純粋にあるからなのだろう。
そんなことを思いながら、僕達はまたピアノへと手を伸ばした。1人の手は、急かすように。1人の手は、おずおずと戸惑うように。
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作者名：紗由紀 | 作者ホームページ：http://uranai.nosv.org/u.php/novel/sayukinopurofu/
作成日時：2022年4月23日 21時
