九十四片 ページ3
視点なし
「はぁ、はぁっ、ひ、やめ、やめろ！」
森。鳥は鳴くのをやめ木々は騒めくこともしない。
風すら吹くことを遠慮する中、男の息遣いだけが不快に木霊する。
「何でもやる！金か！？地位か！？俺はマフィアだ！！あとで斡旋でもなんでもやってやる！」
「いりません...」
「じゃ、じゃあいってみろ！俺が直接あの方に交渉してやる！」
「...もっと、いらない...」
焦る男とは違い、至って冷静な声の主は、男の命乞いに眉をひそめた。
「貴方、強いと、伺いましたが...そうでもない...？」
「つ、強いさ！だが今俺の匣は、っ」
男はすんでのところで口を噤んだ。
男のメイン匣は今、タイミングの悪いことに動作しない。
雑に扱ったせいでリングを差し込む穴が変形したのか、男の炎を受け付けなくなってしまった。
それを目の前の襲撃者に教えたところで、さらに足元を見られて、最悪殺される。
素直に現状を吐くよりは、少しでも可能性のあるでっち上げを。そうやって男は今の地位まで上り詰めた。
「俺の匣は強すぎて、今ここで開けちまったらやべぇことになんだよ！」
「...そう、なんですか」
心なしか襲撃者の瞳の色が変わる。男にとってそれは好奇心を宿したように見えた。
今だとばかりに、男はポケットにしまっていた匣を掲げる。
「そ、そうだ。なんだ？匣がほしいのか？ならこの匣より強いやつを用意してやる」
「それも、いいですね...」
匣に手を伸ばす襲撃者から逃げるようすぐに匣をしまい込み、交渉を続ける。
「じゃあそれで決まりだ！安心しろ約束は違えない。い、いまあのお方に、匣を頂けるよう連絡してやるからな！だ、だからそっから動くなよ！」
急ぎ端末を取り出す。勿論あのお方に連絡を取るはずがない。取れるはずもない。
それらしい会話をしつつ同胞にしか伝わらない暗号で助けを呼ぶために、所属する基地の責任者に電話をかける。
だが、通信がつながる前に。
「困ります...そこまではまだ、許可されてない、ので...」
男が握る通信端末が、粉々に砕け散った。
襲撃者が男に向け手を翳しただけで。
「っあ...！？」
「やはり、遠慮して...おきます。定刻ですし...それだけ、頂きます」
「う、動くな！来るな！来るなっていってるだろ！」
最早腰も抜け、芋虫のように這いずりながら距離をとろうとする。
男はこの襲撃者のことをよく知らない。
鼠一匹通さないはずの厳重な警備を単身で掻い潜り、たった5秒で、男の部下50人を倒したこと以外。
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作者名：雪兎(月兎) | 作成日時：2023年9月1日 21時
