◇忘れたいこと ページ22
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たった一粒。
本当に一粒、零れただけ。
だけど目の前で驚いたように目を見開く忠義には
しっかりと見られてしまったようだった。
怪訝な顔をしたまま、だけど何も言わずに
忠義はその長い指であたしの頰をそっと拭う。
“ありがとう”も
“ごめんね”も
何も返すことが出来なくて
されるがままで。
ただ心配そうなその黒い瞳を見つめたままで
まるで金縛りにかかってしまったかのように
あまりに衝撃が大きくて、身体が動かない。
…痛い
胸が、痛い
「そっちの子は?」
やめて
「あ、Aのこと?」
「……え? Aっていうん?自分」
話しかけないで
「…Aちゃん」
忠義の瞳が不安げに揺れる。
遠慮がちな力でニットの袖を引かれるけど
やっぱりあたしは動けなくて
「…もしかして、八神A?」
ハッとしたような、そんな彼の声が響くと
何重にも鍵をかけて閉まっていたはずの
忘れたくて仕方がなかったあの頃の記憶が
頭の中のスクリーンに
鮮明に映し出された。
「ん?知り合いなんか?」
「…中学の同級生なんやけど…え? 待って、ほんまにAなん?」
視界の隅に派手な色のパーカーが映る。
顔を覗き込もうとしてるんだなって
彼の意図が読めた次の瞬間、
あたしの金縛りは解けた。
『あっ…あたし!』
反射的に口から飛び出した声と同時に
ガタン!と派手な音を立てて席を立つ。
『ちょ、ちょっと気分悪いから…トイレ行ってくる』
我ながら下手な誤魔化し方。
忠義なんか明らかに何か言いたそうな顔で
あたしをじっと見上げているけれど
心がぐちゃぐちゃに掻き乱されてる今
そんなことには構っていられなくて。
とにかくこの場から逃げ出したくて、
…これ以上彼と同じ空間に居たくなくて
みんなの反応も待たずに
一人、教室を飛び出した。
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作者名:べに x他1人 | 作成日時:2015年11月27日 21時