歌姫は檻から出ない【中原中也】

割れたグラス ページ34

『もう…また新しいの買わなきゃ』


女が去った後、割れたグラスを片付けるために箒で掃除していく


結婚すればおしまい

確かにそうね

中也が結婚かぁ

想像出来ないかも

しかも白いタキシードでしょ？
絶対想像できないもの

『逆に笑えてきちゃう』

1人クスクスと笑えばその隣は私でありますようにとこっそり願う


カチャリとグラスを捨てていけば私はポツリと寂しそうに立っているスタンドマイクを目にする


『歌いたいなぁ』


ゆっくりマイクを触りもう夜になった外を見つめる

すぅ、と息を吸い込めば肺にはBARの香りが広がる

息を吸えば後は歌うだけだ

ほかの気持ちなんていらない


そう思いながら私は小さな声で歌い出した


まだジャズも響いていないBARの中は私の歌声だけが響いていく


カウンターに置かれていたグラスには、少し悲しそうな顔をしている自分と目が合った


私、どんな顔して歌ってたのかしら

中也に聞いてもらった時、こんな悲しそうな顔だった？

こんな顔してたらやだなぁ

悲しい思いをしてた訳じゃないのに


すると演奏者たちがやってきて私は歌を止めた

また今日も夜が始まる

いつもと少し違う夜が


OPENと書かれた板を扉にかければ、いつもと同じ心地良いジャズが流れ出す


『いらっしゃい』


1人目のお客さんに私はいつも通り微笑んだ

するとそのお客さんはカウンター席に座り「知ってるかい？」と上機嫌そうに話しかけてくる

『なぁに？』

私は小さい子供のように続きを気にすれば更に機嫌が良くなりお客さんは言葉を続ける


「君はこの街の歌姫と噂されているよ。さっきそこの道端でもその噂が聞こえたんだ」


歌姫


まさか私が？

『真逆、人違いじゃない？』

「いや、ここのBARの名前を言っていた。君のことで間違いない」


歌姫、か


そんなに上手くないのに


『上手くないのに…でも、光栄だわ』


ゆるく微笑めばお客さんは満足そうに頷きお酒を飲み出す


「惚れた女は最高の歌姫なんだよ」


ドキリ


やだ、今私顔赤いんじゃない？


どうして今中也の言葉を思い出すのよ


忘れて、今は忘れるのよ


「いい女なんだ」


ドキリドキリ


もう、やだやだ

今は大人しくしててよ中也


「あれ、なんか顔赤いね？もしかして酔った？」


嗚呼…

ほらやっぱり、今顔赤くなってるんだわ私


中也のせいよ

次会ったら怒ってやる


『酔ったみたい』


微笑んで私は小さく深呼吸をした

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