おいで、俺んとこ。【永瀬廉】

#8 頭を過ぎるはあの匂い ページ8

机上のスマホのバイブが鳴って、振動が伝う。
夜6時。恒例の着信。相手は見なくても分かってる。


「もしもし？」


「あ、もしもし。今お家？」


「うん。今宿題やってたところ」


母親だ。2日か3日にいっぺんくらい、こうして電話をかけてくる。
特に何の用事もなく、ただ私の生存確認で。


「お疲れ様。お隣さんにお菓子渡せた？」


「ううん。今日もいなかった」


「えぇ、そうなの。なんかやだね、変な人だったらどうしよう」


「んー…大丈夫でしょ、多分。どっか出かけてるんじゃない？出張とか」


隣に引っ越してきた高校生とその親に、勝手に“変な人”疑惑をかけられるお隣さん。
なんだかちょっと、不憫な気もする。


「そんで、どう？一人暮らしは。大丈夫そう？」


親との通話料金はバカ高いから、長くても5分しか話さない。

30秒で65円。だから5分だけでも、650円。ラーメン一杯分。

何でこんなに高いかって言ったら、理由はひとつ。

この人今、海外にいる。
ヨーロッパ。フランス。そんなお洒落なとこで何してんのって感じだけど、普通に仕事で。

あっちの今の時間は、午前の11時らしい。


「うん、全然大丈夫」


「良かった。学校は？」


「楽しいよ」


折角の貴重な5分なのに、電話の内容はこの間とほぼ一緒。
母親が出題してきた問いに、無難な模範解答をツラツラ書くだけ。


「じゃあ前の学校より、好きになれそう？」


「………うん、そうだね」


これも、知ってる問題。
“うん”って答えれば済む話。


“そこの猫好きさん”


なのに今、余計な誰かの影がチラついたのは何故なんだろう。

紺色カーディガン。萌え袖。桜の花びら。
くりくりな目は、春の光と花びらを、眩しいくらいに映してた。


「あのさ…お母さん」


“ここのクラスなん、猫好きちゃん”


違うんだけどな。私、ちゃんと他に名前がある。
でもこの呼び方も、なかなか嫌いじゃない。

その上猫好き“さん”が“ちゃん”になったのも、どっちかって言ったら、嬉しい気もする。

…それからあの時、ふわっと鼻先をかすめたカーディガンの匂いも。



嫌いじゃないというか。寧ろ、好きだ。



「私、ちゃんと楽しいよ。学校」


テキトーな言葉がスルっと出てから、何それって自分でも思う。

学校が楽しいだなんて、思ったことない。
それでも今まで母親に平気な顔して淡々と言えていたのは、ただ慣れてたから。

口先だけの言葉だったはずだった。

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