溺れて、みずうみに (ページ4)

今日:1 hit、昨日:8 hit、合計:59,304 hit

４ページ4

ふと私の手元に視線をやる彼。

「それ。」

「ん？」

指を刺されたのは、さっき彼が取ってくれた本。

ドイツ作家、テオドール・シュトルムの作品、“ みずうみ ”。

ドイツ語で書かれているバージョンだから、普通の本より読むのが大変そうだけど、私としてはそういう本の方が余計なことを考えなくてちょうどよかった。

「どんな話なの？」

「あぁ、これ？」

これはねー、と思わず続けそうになったが、まだ私はこれを読んでいないからどんな話かわからない。

彼も、さっき自らの手でこの本をとったじゃないか。

「阿部くん、私まだ読んでないんだよ？」

少しの間をあけ、「あっ！」と顔を赤く染める彼は、どうやら天然というか、少しドジらしい。

それを指摘すれば、必死に否定しようとするけれど、本人にも自覚があるらしく、それは無駄な抵抗となった。

歯切れ悪くボソボソ呟いている彼に、とうとう耐えきれなくなって声を出して笑った。

こんな風に笑ったのはいつぶりだろうか。

幼稚園、小中高と、そういう家が通うところにしか行ってなかった私は、いつの間にか愛想笑いばかり上手くなっていったけど。

今までのどんな時間よりも、彼とのこの時間が楽しかった。

気づけば彼も楽しそうに笑っていて、「つられ笑い？」「うん、つられ笑い。」なんて言い合って、また笑う。

彼といれば、私は新しい自分に出会える気がした。

すこし寒い言葉かもしれないけど、“ 本当の自分 ” というものに出会える気もして。

いや、もう会ってるかもしれない。

彼ともっと話したいと思った私は、これまた初めて自分から連絡先を聞いた。

今までなんの意味もなかった私の携帯に、使い道ができた瞬間だった。

すでに私は、彼の事が好きになっていたのかもしれない。