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『A』
……そうだ、そうだよ。
黒い髪を靡かせてこちらを振り返る男性を、僕の目の色とよく似た瞳の色を……僕の名前を紡ぐその声を、僕は誰よりも知っていた。
「に、さん……」
「え……？」
なのに、あの人の言葉に乗せられ、恐怖に負けてしまった。言いなりになってしまった。後先考えずに頷いてしまった。
「ごめ、さない……っ、”兄さん”……！！」
その結果……何よりも大切だった人のことを忘れてしまっていたんだ。
独りになるのが怖かった。どんな人よりも大切だった。失うことが怖くて怖くて、いつも貴方を見ていないと不安でたまらなかった。
だからあの日、じいちゃんとばあちゃんがいなくなった時……考えたくない事が頭から離れなくて『どうにかしなくちゃ』と思ってしまっていた。……周りが見えなくなってしまっていたんだ。
「ぼく、ぼく……っ」
もう二度と忘れないように、近くにある温もりを強く強く抱きしめた。……その時だ。
「……！」
「……お帰り、A」
背中に感じた温もりと、耳元で聞こえた声。その言葉で僕はまた涙が溢れてきて、ぐしゃぐしゃになってるだろうと思い、思わず隠そうと思わず兄さんの胸に顔を埋めた。
そんな僕の頭に乗った温もりが更に僕の顔を酷くするんだ。
「やはり彼女の記憶を取り戻す鍵は、貴方しかいないと思っていたんですよ」
「野坂……！！」
「彼女が記憶を失ったことについては貴方が故意的にやったのか、それとも偶然だったのか……定かではありませんが、明らかな事実はある。貴方にとって彼女が記憶を失ったことは都合が良かったのでしょう。その方が自分の思うとおりに操る事ができるから」
「チッ……！」
二人の会話が気になって少しだけ顔を上げると、あの時の男性がこちらを見下ろしていた。目が合った瞬間、身体がビクッと反応した。
身体の震えが止まらない。あの男性が怖くてたまらない。目を逸らしたいのに逸らせない。
「アレスの天秤は終わる。……妹は返して頂きます」
「……私は構わないが、いいのか？ お前は兄を救う手段が他にあるのか？」
男性の言葉は最もだった。
僕と兄さんしかいないのに、誰が兄さんを助けてくれるの？
……僕がやるしかないんだ。だから、あの人に従わないと……っ。
「いらない」
「は？」
「え？」
頭上から聞こえた声。
男性の言葉に否定の声をあげたのは兄さんだった。
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作者名：恵野 | 作成日時：2022年8月11日 13時
