9. ページ26
『皐』
そう名前を呼ばれて、
思わず顔が引き攣る。
本当は思い出して欲しい。
でも、それが叶わないと、分かっていから、
以前の君が知っていた私を、
隠していたというのに…
｢どうしたの？そんな変な顔をして。｣
｢せ、せいい、ち……？｣
恐る恐る、名前を呼ぶと、
｢おいで、｣と腕を広げて、名前を呼ぶ幸村。
じわり、と込み上げる涙を、
くっ、と堪えて、彼の胸に飛び込んだ。
｢せいいちっ……｣
忘れらない、温かさ。
背中を回る腕の感触、いっぱいに広がる香り。
ぎゅっ、と彼の服を握りしてると、
不意に、頭を上に向かされ、
視線が交じり合う。
だんだん、ゆっくりと、
幸村の顔が近づき、目を閉じる。
見えなくても、近づいてくるのが分かる。
｢……ふっ、｣
｢え、｣
吹き出す様な、笑い声が聞こえて
目を開けると、幸村が鋭い視線を私に向けていた。
驚いて固まっていると、
回していた腕を解き、後ろに幸村は距離を取る。
｢“せいいち”だなんて、随分可愛い声で
俺のことを呼んだね。｣
私を見ながら、嘲笑う。
｢上手くいった。｣と、言いたげな瞳。
その笑みを見た瞬間に、
さっきまで火照っていた気持ちが、冷めていく。
｢お前、｣
｢君もやっぱりそうか…
笑顔で名前を呼べば、本性をだす。｣
｢騙す、なんて、手のこんだ事やるな。｣
声が震える、息が詰まる。
嗚呼、騙されるなんて、バカみたいじゃないか…
冷静に考えてみれば、可笑しい話だと、いうのに…
｢君と、前の俺がどんな関係か、
大体分かった気がするよ。
…残念だけど、俺はそういうの望んでない。｣
｢は？｣
意味が分からない。
きっと、何かを勘違いしている、この男は。
｢お前、なに｣
｢俺は君の事、そんな風に見る気なんてないから。
気分が悪い…出てってくれないか…｣
｢…っ」
｢なんで、私が｣という言葉よりも早く、
幸村に背を向けて、扉を閉めた。
雷雨の激しい、雨の中へ＿＿＿
.
他人扱いされるよりも、
記憶を失った事よりも、
貴方に拒絶される事が、
何よりも怖くて、普通にしていたのに…
『気分が悪い、』
そう述べられた言葉に、
どれほど私が傷ついたなんて、
貴方は知りもしないでしょう…？
｢＿＿＿＿＿＿皐、」
傷ついた時、
独りの時、君はいつも、
私の側に、来てくれる。
｢仁王っ……｣
支えてあげるのも、
涙を拭うのも、彼しか、いない＿＿
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