唇とマーマレード 6

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「A、帰ろう」

彼はいつもと変わらない様子で私の前に立つと、優しく手を差し伸べてくる。

だけど私は、その手をすぐに掴むことが出来なかった。

じっとその手を見つめたまま、怖くて彼の顔を見上げることもできず、

何故か私は向かいに座っていた太輔の方へ、助けを求めるかのように視線を送っていた。

太輔が「早く掴め」と目で合図をしてくるから、意を決してその手を取った。

きっと彼も、そんな私の変な行動に気付いてるはず。

掴んだ彼の手は驚くほどに指先が冷たくて、もっと私を怖がらせた。









道端に停めていた車の助手席に乗ると、運転席に座った彼は優しく笑いかけてくる。

「お腹すいただろ
Aの好きなポトフを作ってるから」

頭を撫でられても、私は小さく頷くことしかできなかった。

何で、こんなことになっちゃったんだろう。

ほんの数日前までは、本当に幸せな私達だったのに。









帰宅後、彼はいつものように私の世話を焼いてくれる。

食事を用意してくれて、暖かいお風呂に着替えもセッティングしてくれて。

正直、ポトフはほとんど残してしまった。

なんの味もしないんだ。

お風呂上りに、

「よく眠れるように」

と、彼はサングリアを作って、ソファーに座らせてくれて。

その時初めて、彼は今日のことを話題にした。








「うちの母親が来てたんだって？」

私は無言で頷くのみ。

「昼前から本社に出かけてたから、全然知らなかった
社長室にも勝手に入ってきてたみたいだけど」

そっか、社長室に行ってたって聞いたっけ。

ああもう、頭の中がぼんやりと靄がかかってるみたいだ。

何も考えたくないのに、考えるのは暗いことばかりで。

いつも一晩寝たら忘れてしまう性格の私なのに、今回のことだけはかなりダメージを受けてるみたいだ。

幸せを手に入れたばかりなのに、もう失っちゃうのかな、そう思っただけで過呼吸になりそう。









「俺は、Aと別れる気はないから
例え瑠璃子さんのお腹の子が俺の子だとしても、俺の意志でこうなったわけではないし
慰謝料と養育費くらいは払う覚悟はできてるけど、認知だけは絶対にしない」

静かに、それでも力強くそう言い切った彼は、

「もう寝よう」

と、私を寝室に連れて行って。

「今日もAと眠るから
今日もじゃなくて、一生
死んだ後も、Aとずっと眠っていたい」

そんな切ない言葉を吐いて、彼はいつものように背中から私を抱き寄せた。

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