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誰も聞いちゃいない。分かってはいるけれど、質量を持ったそれをどうにか出来るほどの力は私には無くて、眉を潜めた先輩にだけ聞こえる声で言葉を続ける。
「お母さんが、水族館好きだったんです。だから、私は魚が好きになりました」
「……そのお母さんは、今」
「四年前に病気で死にました」
死。今日発した言葉の中で一番質量を持っていたその言葉を漏らしたとき、明らかに彼との間に漂っていた空気が変わった。
言葉を選んでいるような、何て言うべきか悩んでいる様子が伝わってきて、慌てて再度彼の腕を引き、丁度真上を通った大きな魚を指差す。見るからにエイであるそれを指差して「なんですかね、あれ」なんて馬鹿な問いを投げ掛けてしまったのは、少し、私も動揺していたから。
自分でもまさか、こんなことを誰かに言う日が来るとは思わなかった。誰かの前でお母さんという単語を紡ぐことも、母が病気だったと伝えたことも、殆ど無かったのに、どうして彼には言えてしまったのだろう。
言ったって、私の罪は消えないのに。
「お母さんのお墓ってあるの?」
「……ありますよ。それくらいしか、母に恩返し出来なかったですし」
「じゃあ、なんか買ってこう。ここで。それで、お墓参りに行くときにでも、持ってきなよ。お母さん喜ぶよ」
ほら、さっきの元気はどこ行ったんだよ。そう言って今度は私の手を引いてくれている彼の手は、ずっとポケットの中に仕舞われていたせいか、とても暖かかった。
勝手に話して、勝手に気まずくなって、勝手に落ち込んで。そんな自分勝手な私を、彼は笑わなかった。いや、正確には笑っていた。「Aちゃんのプレゼントなら絶対お母さん喜ぶって」と、心につっかえていた蟠りを溶かすような柔らかい笑顔で、私を見つめていた。
「ちょっとちょっと、泣かないでよ!なんか俺が悪いみたいじゃん!」
「……先輩が悪いです」
「え、さっきの俺寧ろ最高にイケメンじゃなかった?!この上なく完璧だったでしょ?!え?!なにが気に障ったの?!」
ワタワタと左右で手を大きく動かしては、ハンカチを取り出したり意味が分からない言葉で慰めようとしたりと忙しい彼の手を、私は強く握り返す。すると彼の動きは面白いほどにピタリと止まって、それでもまた更に指先に力を込める。彼が「あの、ちょっと痛い」と溢すほどに、指輪が嵌められたその手を、私は強い力で握り返した。
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