並ぶ名前と背中の体温/kwmr ページ42
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こんなにも薄っぺらい紙1枚で、何が変わるというのだろう。ひらり、暖房の風に婚姻届がはためいた。
向こう側さえ透けて見えるほど薄い紙。これを埋めることで、立場や心境の変化はそれなりに生じるだろう。
しかし、紙切れ1枚に縋り、左右される人生なんて真っ平ごめんだと思っていた時期があった。若かりし頃の僕は、愛がそんな安っぽい保証を必要とするものだとは、思いたくなかったのだ。
「……なのに」
端を指で摘み上げ、しげしげと眺める。この紙1枚に、今の僕はえも言われぬ感慨深さを感じていた。良くも悪くもこの10年近くで僕自身が変わったことに違いはないようだ。
パシャリ、スマートフォンで婚姻届の写真を撮った。自分の名前の横に、Aの名前が並んでいることに、喜びと、幸せをゆっくりと噛み締める。
「拓哉さん」
肩のあたりで切り揃えた髪を揺らし、彼女がふうわりと柔らかい表情で僕を覗き込む。安らげる空間は、全て彼女の笑顔に起因する。
「おいで、」
隣に座ろうとした彼女に目を合わせると、ぴたりと寸分の隙間もないほどの距離で、彼女が僕に身を預けた。
他人にベタベタとくっつくのは好ましくない、そう思っていた僕がこの距離に慣れたのもここ数年の変化のひとつと言える。
「もうすぐ、ですね」
婚姻届を提出する日まで、あと2日と言ったところだろうか。完璧に埋められたそれを持て余す時間は、甘く、じれったい。
文字通り目と鼻の先で、Aが微笑んだ。いつも通りの、柔らかい微笑み。見慣れているはずなのに、大好きなはずなのに、ひゅうと喉の奥が鳴った。じくじくと胸が痛む。…ああ、これは恐怖だと、脳が告げていた。
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てんしゅ(プロフ) - 初めまして。いつもドキドキしながら読ませていただいております。「香りにキスして」の煙草はアークロイヤルのパラダイスティーかな?と想像しました。自分もアークを吸っているのでにやにやしてしまいました。これからも応援してます。 (2020年12月7日 20時) (レス) id: 02b4360ac3 (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:エリッサ | 作成日時:2020年9月26日 13時