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私は彼との関係性が好きだった。ボロアパートの、一見怖く見えるけど本当は優しいお隣さん。どこか漫画のような現状が、一進も一退もしないようなこの関係が好きで、だからこそそれに亀裂が走るようなことはしたくなかったのだ。たとえその亀裂とやらが、私や彼にとって良いものだとしても。
だから私はぐちつぼさんに何も言わず挨拶や世間話を交わし続けたし、「大掃除でもしてるんすか？」なんて詮索も誤魔化した。引っ越しの当日だって彼には何も言わず、ぐちつぼさんが仕事へ向かったことに安堵さえ感じながら荷物を運び出した。
新居に向かう車内で、移り変わる風景を眺めながら良いひとだったなぁ、と考えていた。いつも明るく挨拶をしてくれていた彼の声を思い出して、やっぱり何か言えばよかったと、連絡先だけでも貰えばよかったんじゃないかと思いながら、それでもこの思い出はあくまで思い出だけだからいいんだと自分に言い聞かせた。今は未練タラタラでも、少しずつ彼のことを忘れて、少しずつ思い出にしていこうと、そう決めたんだ。
でも、たぶん、それがいけなかった。
新居で過ごす、数日目の夜だった。軋まない床にも空調の整った部屋にも少し慣れてきた頃。もうそろそろ眠りに就こうかと思ったら、ガンガンガン、と強めの音で扉をノックされた。
「はーい」
こんな時間に誰だろう、と内心不思議に思いながら玄関へ向かう。待ちきれないとでも言いたげに扉がもう一度叩かれた。ガンガンガン、と強めに三回。そんなに急かさなくてもすぐに向かうのに。……ん？ でもあれ、なんだかこの音、聞き馴染みのあるような、
「どちらさまです、か」
そう言って扉を開けた時だった。夜の闇に溶け込んでしまうかのような黒いシャツが目に入る。見上げないと目が合わないような高さにその人の顔があってなんとなく懐かしくなった。目が合う。赤い瞳と黒眼鏡。正体がわかる。怖くなる。
あ、そうだ、このノックの音、
「な、んで」
「やっぱココだったんすねぇ」
嬉しそうな、怒ったような声が聞こえて、あ、からだが、うごかない。
蛇に睨まれた蛙のような、いやきっとそれよりも恐ろしい気分だ。今すぐに殺されてしまうのではないかと思うほどの殺気が私を包み込む。ぐちつぼさん、と呟いた声は掠れていて言葉にならなかった。
「ひどいじゃないっすか。俺になんも言わず引っ越すなんて。俺たち、結構話してると思ってたのに」
「っひ、ぁ、こないで、」
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