その軌跡を語るなら

29．15-2 ページ29

それからの私はとても多忙だった。
日本とのやり取りや、こちらで決めておきたい事の調整や、この2ヶ月、のんびりしていたから、そのギャップに笑ってしまう程だった。

その電話が来たのは、出掛ける仕度をしていた時だった。
エッセンの不動産店から、何件か希望に添えそうな物件が見つかったと言われて、それを見に行こうとしていた時だった。

「山本です」

夫の代理人の弁護士からだった。

「ようやく崇史さんが折れてくれました」
「…じゃあ」
「はい、Aさん、古屋さんに戻れますよ」
「…あ、ありがとうございます」
「いえいえ、僕は自分の仕事をしただけですから。…おめでとうございます、でいいんですよね？」
「はい…！ あの、本当にありがとうございます」

長くなると申し訳ないので、帰国した時に細かい話をする約束をして電話を切った。
姉が、泣いていた。

「ヤコちゃん、心配かけてごめんね？ でも、もう大丈夫だから」

姉は泣きながら何度も頷いていた。

「今夜は、何か美味しいもの食べよう！」
「出たっ！ ヤコちゃんの美味しいもの」
「特上をお願いしようね」

姉に、デュッセルドルフ中央駅まで送ってもらい、電車でエッセンまで行く。

「じゃ、気を付けて」
「うん、行ってきます」

天気も良かった。
私の気持ちも晴れ渡っていた。
こんなにすっきりした気分は、本当に久しぶりだった。

エッセンで、不動産店の担当者と落ち合い、物件を見て回る。

崇史さんは、代理人を立てたが、私は全て自分ですることにしたから、弁護士の山本さんと何度も電話やメールでやり取りをした。
崇史さんは、やり直したいと言っていたから、最初は山本さんも、私が戻る事に交渉の重きを置いていた。
だが、私の気持ちを丁寧に説明する内に、崇史さんを説得する方向にシフトして行った。

「これじゃ、僕はAさんの代理人みたいですよ」

と言って、笑っていた。

もう、私は崇史さんの事を愛していないのか。
解らない。
解らないけど、半年の間耐え続けて、なんとか修正しようと努力してきたつもりだった。
でも、あの時、血だらけの私を残して家を出て行ってしまった彼に、もう私の方が無理だった。
限界だった。

彼に暴言を吐かれようが、無理に身体を求められようが、いつかきっと前のように戻れると思って耐えてきたけれど、もしかしたら、それが良くなかったのかも知れない。
我慢するのではなく、ちゃんと嫌だと言えば良かったのかも知れない。

30．16→←28．15-1

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