準備ができたら火をつけるから ページ21
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茜色が水平線を縁取っていた。Aはサンダルを脱いで裾をたくし上げると、ざぶざぶと音を立てて海へと足を踏み入れた。夏の香りをはらんだ潮風がひとつに結った髪を揺らしていった。この海には、以前に百と訪れたことがあった。彼はスポーツを広く好んでいて、マリンスポーツもその一環だった。夏季休暇の頃になるとこの浜には海の家や簡単な食べ物を売る屋台が開かれていて、彼はその中のひとつの屋台が出していた焼きそばが大の好物だった。Aには特に食べたかったものはなかったから、目を輝かせて麺を口にする百をじっと見つめていた。
両手に抱えていたサンダルを砂浜に落として、つっかえるようにそれを履いた。海水によってサンダルと皮膚が貼り付くような感覚がした。Aは近くの水場で砂と海水を落とさなければ、と考えていた。帰り際、道端に設置されていた自動販売機で炭酸飲料をひとつ買った。昔にこの海を訪れたとき、焼きそばを前に浮足立っていた百を尻目に瓶のラムネを買ったことを思い出した。特別昔の思い出ではなかったが、そのときの青い硝子瓶がはっきりと記憶に残っていた。Aはペットボトルを指で弾いた。硝子のような澄んだ音が響くことはなかった。
「うみに、きてた、よ、っと」
ぬるい海水と違って、水場の冷水は肌にひりりとしたつめたさを感じさせた。ハンドタオルで軽く拭うと、べとべととした感じは幾分か楽になっていた。車はこの場所から少し離れた駐車場に停めてあった。Aはサンダルをぱたんぱたんと鳴らしながら手元のスマートフォンを操作していた。メッセージアプリの百とのチャットに、日が沈む光景を撮った写真を添えてこの海を訪れたことを伝えた。彼は忙しいから、しばらく返事が来ないだろうという確信めいたものがあった。
車に乗り込んでエンジンをかけると、聞きなれた音楽が耳をかすめていった。この海へ来るときには周囲の迷惑になるだろうからとスピーカーの音量を下げていたが、帰路ではせっかくなら好みの音楽を流しながらゆったりとドライブでもしようと思った。海から遠ざかっていくように内陸部へと向かって走る車は、ゆっくりと、けれどもすぐに背にした海を置き去りにしていった。換気のためにとほんの僅かに開けた窓から、遠くへ運ばれたために擦り切れかけているような海の匂いがかすかに滑り込んで、背後の海を感じさせた。スピーカーから、メロディラインを伴って百の声が飛び込んできた。この海にともに訪れた彼の声がした。
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