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「私、ヴィルさんの大ファンだったのよ。だから、貴方が引っ越してきたとき吃驚しちゃった」
『ふふ、オネエということにも吃驚したわよね』
「まぁね。でも、其れも個性のひとつよ」
「あら、このマカロンも美味しい。作り方教えてね」彼女の言葉にAは微笑んだ。高級住宅街の奥様付き合いは悪くない。ドラマで取り上げられるようなギスギスとしたどす黒い人間関係なんて早々ない。此処に住む彼女たちは洗練された女性達なのだ。幼稚な真似なんてしない。
パンを焼いたり、花をいけたり、丁寧で静寂な生活をAは存外気に入っていた。白球を追いかけ続けたあの頃が恋しくないと言えば嘘になるが、此の生活をアタシは好んでいる。悠岐さんや晃さん、皆と汗にまみれたあの日々。引退を決意した時、悠岐さんは少し泣きそうな顔をしていたっけ。
「そんな……すまん」
彼はきっと勘違いしている。アタシはアタシなりに満足して、やりきったからこそ引退した。その
ことを彼は分かっていないのかもしれない。
「お茶のお代わりはいかが?」
『ありがとう、いただこうかしら』
注がれる琥珀色に最愛の人の瞳を見た気がした。
「ええなぁ、俺もお茶会したい」
『嘘ばっかり。きっと直ぐに飽きて、漫画読み始めるわよ』
「バレたか」
夕食後ソファーに並んで座った夫は舌を出し悪戯に笑い、Aもつられるように笑った。笑う妻の姿を柳田は目を細め愛おしそうに見つめる。其れに気がついたAは柳田の両手をそっと握りしめた。
『ねぇ、悠岐さん』
「ん?」
『アタシは此の生活も此の世界も気に入ってるわ』
「……」
『アタシは満足したの。自分の中でやりきったと思ったから引退して、此の世界に飛び込んだのよ』
柳田の日に焼けた頬に手を這わすと、彼はAの手に自ら頬を擦り寄せる。Aの蜂蜜色の瞳が優しげに弧を描いた。
『そりゃあね、あの世界が恋しいときもあるわよ? でも、捨てたわけじゃない。どんな形でも関わっていける。アタシは貴方と世界を築いていきたいのよ』
「俺とAの世界か……きっと極楽浄土やろなぁ」
柳田は嬉しそうに微笑むとAの顔に自分の顔を寄せた。瞳を下ろす妻を見つめながら、此の世界は泣きたくなるほど幸せだ、心の奥底で誰かが呟いた。
誰ガ為ノ世界
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作者名:ペリー | 作成日時:2020年8月5日 2時