【WT】さよならを後ろから数える【sm】 (ページ40)

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「おはようございます。今日は図書館に行きますよ」

今朝起きてきたAさんは、普段の彼女と何ら変わらないように見えた。てるてるぼうずの効力は二日はもたないのか、生憎の雨模様だったが、彼女は昨日とは違うコートにパンツを着て、コンタクトレンズを入れずに黒縁の眼鏡をかけたまま、マスクをつけた。学校に行くときの恰好や昨日のそれに比べるとどこか野暮ったく思えるが、敢えて口にはしない。

少し時間を潰してから再びマンションに戻ったとき、あの男の姿はもうなかった。身を固くしていた彼女が深く息を吐いたのを察しながら、俺は周囲に視線を送る。小さな子供と手を繋いだ父親、俯きがちに歩く初老の男性、鎖に繋がれた犬、排気する黒い車。短い黒い髪の、ベージュのパンツを履いた細身の男の姿はない。小走りでマンションへと駆け出す彼女を隠すように歩く。エレベーターで彼女の部屋のある階まで上がり、鍵を使って扉を開けたAさんは、靴を脱いだあたりで安心したように体から力を抜いた。

「コーヒー、飲みましょう！」

困ったような笑顔で、Aさんは俺にそう提案する。ついさっき飲んだばかりだろ、そう思ったけれど、俺は彼女に頷いて見せる。

それからはなるべく普段通りを装っていたのだろうが、今、俺が彼女の傍を離れたことで、Aさんは気を抜いているのだろう。眉を寄せた彼女はその手のひらで目元を覆う。丸くなった背中が痛々しい。

一週間前、この家に来たばかりの日に尋ねた「何か困ってることはあるか」という言葉に対する彼女の返答が脳裏を過る。あのとき、Aさんは一度深く瞬きをした。瞬間張られたその薄い、けれど強靭な膜に指で触れる。
弾力のあるそれに爪を立てたところで、傷一つつきはしない。俺が視線を送っていることに気づきもしない彼女は、そうして一人抱え込む。

自分の家に置いてきた、Aがつくったチャートに、「ストーカー被害に遭っていたら」という項目はあったのだろうか。今となっては無為なことを考えながら、俺は二冊目の本に手を伸ばす。