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Aさんはその日、俺をあちこちに連れまわすつもりだったらしい。
活気のある小売店が立ち並ぶ界隈を通り抜け、彼女曰く「このあたりでは一番大きな本屋」に入る。どれも興味深かったが、Aの部屋の本をまだ読了し終えていないことを思うと手を出す気にもなれなかった。Aさんは「何かあったら言ってね」と黒い革の財布を見せたが、それは本来Aないし彼女が使うためのものである。少し店内を眺めただけの俺にAさんは僅かに唇を尖らせた。
行列ができる前にと連れて行かれたパン屋は小ぢんまりとしていたが、並んだパンの種類はゆうに三十を越えていたのではないだろうか。
Aさんには人参と牛蒡のサラダパンを勧められたが、やんわりと断る。いくつかパンを購入して店を出ると、Aさんは小さなくしゃみを二度した。寒いのだろうか。防寒具にうずまったその小さな頭を振り、彼女はポケットに手を入れる。
「さむい」
「帰ろうか?」
「ええ〜?まだあんまり案内できてないのに」
「風邪をひいたら元も子もないだろ」
「でも図書館とかあるんですよ!今日のメインはそこですよ?」
俺を喜ばせようとしてくれているのは分かるが、それで具合を悪くされては困る。「日を改めよう」と態度を固くする俺に、彼女はあからさまにむくれて見せた。こういう、感情を露わにするところがAに良く似ていて、憎めない。そう思っていることを彼女は知っているのだろうか。渋々と頷いたAさんは、明日改めて図書館に連れていくことを約束して住居への道を戻った。
整備された歩道の脇に植えられた街路樹の葉はすっかり落ちて、寒々しい。「春になると、ここの花壇にマリーゴールドが植えられるんです」俺の視線に気が付いたAさんが、木の根の付近に置かれた土だけのプランターを指差した。
「あそこに見える公園には大きな桜の木があって・・・・・・春は花見客で賑わうんです、ちょっとうるさいくらい」
「桜か、いいな」
「はい。ピンクの花がわーって。きれいですよね」
俺は曖昧に頷く。その頃には確実に自分はここにはいないけれど、わざわざ水を差す必要も感じなかった。マンションが近づいてくる。Aさんの手はいつの間にかコートのポケットから出されていたけれど、ほとんど色がなかった。よほど冷たいのだろう、触れもせずにそう思う。
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作者名:やなぎ | 作成日時:2024年1月21日 12時