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「何？」
丸い瞳、夜の間だけ眼鏡をかける彼女の顔には今はそれがない。Aさんはその指先を自分の唇の端にあてて、ぐい、と口角を持ち上げて見せた。
「スマイルさんってあまり笑った顔、見せてくれませんよね」
交差した視線の先にいる彼女は、小さく首を傾げる。その目の前に置かれたマグカップは既に空だった。彼女にとって、それは何てことない会話の一つだったのかもしれない。
俺の返事を待たずにカップを持って立ち上がると、彼女はそれを流しに置いて鞄を持った。
「･･････もう出かけるのか？午後からなのに？」
「あー。実は呼び出しくらっちゃって。もう行かなくちゃいけないんです。すみません」
本当はお昼を食べてからのつもりだったんだけど、そう言いながら彼女は俺の前にパンが入った袋とジャムの瓶を置いていく。
「粗食ですみません、お弁当作る暇がないんで、今日はこれで勘弁してください」
「いや、いつも気にかけてくれてありがとう」
「土日になったら、一緒にその辺散歩しましょうか。美味しいパン屋さんとか、お総菜屋さんがあるんです。スマイルさんも一日中家にいても退屈でしょうし、色々案内しますよ」
「ああ、助かる」
ほんの数日前まで彼女が作っていた壁は、いつの間になくなったのだろう。人懐っこい笑顔を浮かべた彼女は、コートを羽織って「いってきます！」と元気よく出かけて行った。玄関の鉄製の扉が閉まる音をダイニングで聞きながら、俺はそっと自分の頬を撫でる。あまり笑った顔、見せてくれませんよね。脳の中で容赦なく反芻される彼女の言葉を、冷めかけたコーヒーと共に飲み干した。
「笑ってるじゃないか」
こんなにも。誰にともなく呟いた声は掠れている。空になったマグカップを流しに持っていくと、そこには彼女が使っていたマグカップが行儀よく置かれていて、俺はなんとなく、流しの角にあったスポンジに、洗剤を垂らす。
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作者名：やなぎ | 作成日時：2024年1月21日 12時
