No.345 ページ39
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「しーくんいつもありがとう」
いつにも増してしんみりした声で恵林がぽつんと呟いた。「え?急にどうしたのさ」と中村は茶化すように笑う。
「今、友達全員にありがとうって言って回りたい気分…」
冗談めかしい一言に続けて「はあ……」と長い溜息が聞こえたかと思うと、背中にあたたかい感触がした。それが恵林の額だと分かり、中村の心拍が早まる。「…恵林?」と中村はか細く彼女の名を呼んだ。
「______しーくん、私の事嫌いにならないでね。」
キキキ…と寂しげに蜩が鳴く。
ぐわんと世界が反転するような胸焼けに襲われて、中村の視界が歪んだ。
まるで、この世で最も甘い呪いをかけられたようだった。
しかし恵林はまた一言、「これもみんなに言って回りたい…」と寝ぼけたように付け加える。
中村は心底嫌気が差した。この少女は、呪いをかけるだけかけて解いてはくれない。残暑がまとわりつく、過ぎていく夏の幻想に化かされたような気分だ。
「恵林は俺の事、好きになってくれないのに?」と、中村はふざけ半分で聞く。「え?もう好きだよ」と何度目かの呆れた返事が返ってきたので、「両想いだね〜」と半ば適当にあしらった。
「うん、みんな両想いならいいのにね。」
伏せた瞳で遠くの景色を眺める。恵林は頭の中でぽんぽんと色んな友人の顔を思い返してみて、親友のところで一時停止ボタンを押す。
やはり、思い出すのは楽しかった記憶ばかりだ。きらきらと光っている懐かしい過去。今まですっかり忘れていたというのに、この期に及んでやたらと眩しく見えるのは、その欠片に沢山触れてしまったからだろう。
「早くみんなのところに帰りたい」と、恵林は中村の甘い香りが漂うワイシャツをぎゅっと握った。それに応えるように、彼は自転車のスピードを上げる。
この匂い、やはりどこかで嗅いだことがあると思ったがたった今思い出した。波瀬レイタロウの服の匂いもまた、中村と同じ香りがしている。洗剤ではない、染み付いた煙草と、それを誤魔化す柔軟剤の匂いだ。
レイタロウの母親は喫煙者だったはず。昔彼の使っていた給食当番の割烹着が、まさに今嗅いでいる中村のワイシャツの匂いそのものである。他の全ての香りをかき消してしまうほど強くて、好きじゃなかったのだ。
「……しーくん、煙草吸ってるの?」と、恵林は独り言のように聞いた。答えは安易に想像できる。中村は振り返ることなく背で一言、「吸ってないよ」と答えただけだった。
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えりんぎ※息を吸う(プロフ) - そちゃさん» 今回は出すつもりのなかった波瀬兄弟まで首突っ込んできたので畑中と絢瀬妹の性格について色濃くピックアップされた回になりました。感想いつもありがとうございます。励みになります。 (8月5日 4時) (レス) @page49 id: 5e55bdde31 (このIDを非表示/違反報告)
そちゃ - まさかのしーちゃん回でこれでやっとみんな救われたのかなって...。しずくと修也くんの関係、歪んでて最高です。次回の修学旅行編楽しみにしてます! (8月5日 4時) (レス) @page49 id: 970cecf5ba (このIDを非表示/違反報告)
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作者名:えりんぎ※息を吸う | 作成日時:2023年8月2日 23時